1995年4月19日、オクラホマシティに所在する連邦政府ビル(アルフレッド・P・マーラー連邦ビル)の前で、当時26歳のアメリカ人男性ティモシー・マクヴェイが、大量の爆発物をトラックに積み、爆破テロ事件を起こした。これによって9階建てビルの北側全てが崩落し、168人が死亡、650人以上が負傷した(9.11以前では、アメリカ国内で最悪の被害をもたらしたテロ事件)。
事件後、ビルの跡地は金網のフェンスで囲われたが、そこに捧げ物(花輪、星条旗、ぬいぐるみ、Tシャツなど)を吊していく人々が絶えず、恒久的なメモリアル建設への気運が高まった。当時の市長は350人のメンバーによる特別調査委員会を任命し、具体的な検討を開始した。
特別委員会は、1996年3月にメモリアル・ミッション・ステートメントを発表。爆破による死者、負傷者、救助隊をはじめ、関係した全ての人々を悼み、讃え、希望と癒しにつなげる「シンボリック・アウトドア・メモリアル」と、事件を後世に伝え、そこから教訓を得るための「メモリアル・ミュージアム」の建設を答申した。同年3月に特別委員会は、ミッションを実現するための組織「オクラホマシティ・ナショナル・メモリアル財団」となり、最初の事業としてメモリアル・デザインの国際コンペを実施した。コンペには、全米50州と23ヵ国から624のエントリーがあり、パブリック・ディスプレイの後、5案にしぼられ、1997年7月、当時ドイツを拠点に活動していたButzer Design Partnershipのプランが選ばれた。
2000年4月19日、アウトドア・シンボリック・メモリアルの完成披露式典が行われ、クリントン大統領が参列。翌2001年の2月19日には、ブッシュ大統領夫妻によってメモリアル・ミュージアムの開館式が行われた。
<アウトドア・メモリアル>
○時のゲート……爆破の時刻9:02を挟み、東門には9:01、西門には9:03の表示
○リフレクティング・プール……かつてN.W. Fifth Streetだったところを人工池に
○エンプティ・チェアのフィールド……ガラスをペースとした168の椅子を配置
○サバイバー・ツリー……爆破から生き延びたアメリカニレの木を保存 ほか
<メモリアル・ミュージアム>
エリアの北側に位置するジャーナル・レコード・ビルの2フロアがミュージアムになっている。このビルも爆破の被害を受けており、ミュージアムの一角は、爆破直後の破壊された状態をそのまま保存している。
総事業費は、財団基金を含めて2,910万ドル。施設の管理運営は、オクラホマシティ・ナショナル・メモリアル財団が行っており、その経費は、ミュージアムの入館料、ストアの売上げ、OKCメモリアル・マラソンの収益、個人寄付、基金の運用益などでまかなっている。公的な補助は受けていない。
アーティスト | Butzer Design Partnership |
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アーティスト(日本語) | ブッツァー・デザイン・パートナーシップ |
ジャンル(建築家、ランドスケープなど) | 建築家 |
場所(国) | アメリカ合衆国 |
場所(原語) | Oklahoma City, Oklahoma |
完成年 | メモリアル 2000/ミュージアム 2001 |
施主・主催 | Oklahoma City National Memorial Foundation |
関係団体(共催、後援、助成、協賛、協力) | National Park Service |
資金源 |
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資金源(その他の場合) | |
予算規模(円) | 1億以上 |
外部リンク | http://www.oklahomacitynationalmemorial.org/ |
タグ(地域、テーマ) | アメリカ, メモリアル |