自著紹介『GEIDO論』(熊倉敬聡著)

「GEIDO」って何だろう?
 本のタイトルだけ見てもよくわからないし、目次を見ても、挙がっているキーパーソンたちから内容はなんとなく「あたり」がつくかもしれないけれど、今ひとつしっかりしたイメージを結ばないことと思う。そこで、この場を借りて、なるべくわかりやすくこの本の紹介をしてみようと思う。

 「GEIDO」とは、端的に言えば(あまり端的には言いにくいので誤解を招くかもしれないが)、とりあえず「Art (2.0)」以降の人類の創造性の在り方と言えよう。私の歴史観では、そして最近では小田部胤久などのきちんとした美学者も言っているが、Artとは、何も人類に普遍的な概念・実践ではなくて、いたって歴史的で地域的な概念で実践であるということ、具体的に言えば、18世紀中頃の西ヨーロッパで「作られた」概念・実践であるということをまず押さえる必要がある。この点をきちんと押さえないと(日本では押さえられる人がいたって少ないのだが)、Art、あるいはその日本的翻案である「芸術」や「アート」についての議論は混乱するし、不毛にさえ終わる。
 歴史的に「作られた」、つまり「生まれた」概念・実践であるがゆえに、当然、歴史的に「終わり」、「死ぬ」わけで、これも私の見方だと、Artはもうとっくに「死んで」、「終わって」いる。というか、「殺されて」しまった。いつ?――20世紀初頭。殺したのは誰か?――いわゆる「アヴァンギャルド」たち。どのように?――Non-Art、Artの〈外部〉をArtにぶつけ、粉々にすることによって。典型がマルセル・デュシャンの『泉』。「便器」という(美術館にはあるけれど)およそ「美しい」Artの対極にある「汚らしい」しかも「既製品」。そのArtの〈外部〉=Non-ArtをArtの真っ只中に時限爆弾のように仕込み、それがArtを爆破するたびに、ややこしいことにその爆破行為自体を新種のArtであるかのようにみせるパフォーマンスが繰り返される。その「Art2.0」ともいうべき、Artの死としてのArtを、以降「Contemporary Art」などともっともらしく名づけ、20世紀全般にわたって反復しつづけた。でも、そのArtの死としてのArt=Art2.0のロジックも、反復されつづけた結果、20世紀末疲弊の極に達し、自壊するにいたる…。(ここら辺の詳細は、前著『藝術2.0』に当たってもらいたい。)
 では、Art2.0が自壊するとしたら、これからの人類の創造性はどうなるのか? 消えてしまうのか? そんなわけはなく、ただ、近代においてそれが重点的に注がれていたArtと、その対極的システム=資本主義から、まったく別の未到の地へと移動していくだろう、という予測を私はもっている。その「処女地」に萌える創造の兆しを、前著では(他にいい命名法がなかったので)苦し紛れに「藝術2.0」と名づけ、今回は「GEIDO」と呼んでみた次第。
 「GEIDO」の背景にはもちろん「藝道」という古来からの身心の行の伝統があるわけだが、単にそこに回帰すればいいというのではなく、(レヴィ=ストロース風に言えば)その「冷たい」クリエーションに、現代の「熱い」クリエーションがハイブリッドに再接合することによって、第三の(「冷たく」も「熱い」)クリエーションが生みだされる。でも、なんでそれを「GEIDO」と、わざわざアルファベット表記にしたのか。それは、日本で生まれつつある第三のクリエーションの萌芽は何もこの国に特権的なものではなく、他のさまざまな国・地域で今まさにその国・地域に固有な第三のクリエーションが生まれつつあって、それを(たとえば「JUDO」や「AIKIDO」が外国でも十分市民権を得ているように)「GEIDO」と呼んでもいいのではないか。そうした国内外の動向を視野に入れるべく、あえてアルファベット表記したということ。
 
Artからアートへ、そしてGEIDOへ

 でも、そもそも、私は、若いとき、誰よりもArtにどっぷり浸かっていたのではなかったか。ステファヌ・マラルメなどという、それこそArtの可能性を極北まで追究し、しすぎたゆえにArtの不可能性へと座礁してしまった、そんな「詩人」のArtの冒険を追体験した結果、Artが孕む毒までも存分に堪能し、いつのまにか心身ともに「廃人」と化した…。そんなフランスでの7年間をなんとか切り抜けて、帰国したところが、なんとバブル真っ盛り。1991年だから、経済的にはまさに「バブル崩壊」の真っ只中。でも、文化的にはまだまだバブリーな徒花が咲き乱れていた…。そんななか、「現代アート」もまた、80年代の「くら〜い」ヨーロッパ(フランスは爆弾テロが相次ぎ、人種差別も公然と行われていた)から帰ってくると、まさに「浮世」の華やかさ満載。急にその「空元気」にほだされて、気がついてみたら、「現代アート」を研究するのみならず、評論したり、創作したり、さらには某「コンテンポラリー・ダンス」カンパニーの「ワークショップ」(当時は珍しい語だった)に7年も毎週通ったりしていた。
 そんなある日、銀座で、ドクメンタⅩのディレクターで、作家のリサーチに来日していたカトリーヌ・ダヴィッドに会ったが、開口一番、(もちろんフランス語で)「この国のどこにArtがあるの? どこにArtistがいるの?」と詰問され、こちらはいくつかの名前を挙げつつも、彼女は全く意に介さない風であったことを思い出す。つまり、当時(1990年代半ば)の日本には、彼女から見て(そしておそらく多くのヨーロッパ人から見て)Art――Art2.0も含む――がなかった、Artistがいなかったのだ! 「現代アート」は、Art(2.0)の「模造品」としか見えなかったのだ。
 もちろん、彼女のような(ヨーロッパ的に)「保守的な」キュレーターばかりでなく、「現代アート」を、欧米にはない表現だとして面白がる(たとえばMOMAの)キュレーターなどもいたが、少なくとも当時(1990年代後半)は、今では国際的にも有名・無名の「アーティスト」たちがこぞってニューヨークに移り住み、彼の地のマーケットで「Artist」として認知され、評価されるべく、自らを「売り込もう」としていたのだった。そんな最中、私自身も1998年から2年間、マンハッタンに住むことになる。当時は、トランプ元大統領の顧問弁護士となったルドルフ・ジュリアーニがニューヨーク市長の時代。彼のジェントリフィケーション政策により、少なくともマンハッタンは、夜中に平気で地下鉄にも乗れるほど治安が良くなった反面、あらゆる「やばい」ものは、島外に一掃された結果、「いかがわしい」Art2.0もきれいに「掃除」されて、ニューヨークの「アートワールド」は商業的に小洒落たもので満ち満ちていた。
 いよいよ(Artの「死」の反復で逆説的に「生き延びて」きた)Contemporary Art (=Art2.0)それ自体が末期症状を呈するのを尻目に帰国した私は、もはやそれへの「売り込み」に活路を見出そうとしていた「現代アート」にも、当然のことながら、興味を失い、徐々に研究、評論、創作などをやめていった。そして、それと同時に「では、人類の創造性がもはや(資本主義とともに)Artから離れつつあるとしたら、それはいったいどこに向かうのか?」と自問自答するようになる。しかし、その決定的な「答え」はそう簡単には見つからず、月日だけが過ぎていった…。私はとりあえず、自分の「現場」である教育の現場(それもまた過度な機能不全に陥っていた)に、自分の創造性を新たに注ぎ込み、少なくとも当時の教育界では前代未聞の「自己生成」的学びの場(「三田の家」にいきつく)を、同志たちと日夜楽しんでいたのだった。

三田の家


 そんな中、東日本大震災が起きる。当時、1歳になるかならないかの娘を抱えていた私は、放射能汚染などの不安から、西日本への移住を決心する。たまたま縁あって、京都に移り住んだ私は、この地で数々の「カルチャー・ショック」に見舞われる。その一つが、先に述べた「第三のクリエーション」の萌芽であり、「冷たい」クリエーションがおよそ存在しない東京などでは見たことのない、「冷たく」も「熱い」クリエーションの気配をここかしこで感じとり、しかしその「気配」をなんともうまく言葉や概念に落とし込めない日々が続く。
 そんなある日、ある友人が「東アジア文化都市2017京都」の一企画「PLAY ON, KYOTO」のチームに誘ってくれ、そのメンバーたちとブレストを重ねるなか、その「気配」をなんとか概念的に把捉し、表現できる機が熟していった。それが「藝術2.0」という言葉だった。その「気配」をなぜ「藝」という旧字を使い、それなのに「2.0」なのか。その経緯は、前著を参照してもらうとして、その原稿を書きながら、徐々に奇妙な二つの形象が現出してきた。「V」と「◯」である。しかも「いびつなV」と「いびつな◯」である。

いびつなV、いびつな◯、そして一休さん

 私は、「藝術2.0」(すなわち「GEIDO」)の萌芽を、「工芸」、「発酵」、「坐禅」、「カフェ」、「学び」、「コミュニティ」、「茶道」などと今は呼ばれている領野にとりあえずは探し求めたが、そうしているうちそれらに共通する実存的道程があることに気づいた。藝術家2.0=GEIDO-KA――JUDO-KAなどが国際語となっている昨今、こうした表現も許されるだろう――のほとんどが、この「有」の世界から己の実存を深掘りする行の道に入り込んでいく。そうして「無」「涅槃」などと呼ばれる境に辿りつく。そして、そのまま独行をつづけ、境のさらなる深まりに自らを委ねることもできようし、あるいは一念発起翻って、あえて立ち去ったはずの「有」の、衆生の世界に立ち戻り、その世界=〈有〉――一度は立ち去った「有」を解脱して「無」の境位から翻って離見するゆえに違う風貌で現出するので〈 〉付きで記載しよう――と「戯れ」なおすこともできる。しかも、彼らは、単に古来の「藝道」をなぞるだけに満足せず、そこに同時代的な「熱い」クリエーションを注ぎ込み、自らに特異な「サムシング・スペシャル」(小倉ヒラク)を創出するにいたる。その藝術家2.0ないしGEIDO-KAたちの実存的道程=「V」(「有」→無→〈有〉)は、しかし、各自――独行におけるように究めつづけることなく――哲学者の田辺元や禅僧の藤田一照も言うように人それぞれ究道を「差し控えて」も、「物足りない」ままでも肯んずるような、各々に「いびつな」V=道程で差し支えないのだ。
 そして、そうした実存的行=いびつなVを日々営む者たちは、ときに互いに互いを招き、円く座り、が、「中心」などを置かず、「中空」のままに、その一期一会に賭け、興じたりもする。その折々の円座=「いびつな◯」は、決して閉じられることはなく、むしろ見知らぬ「異人」をも平然と招じ入れてしまう「無条件の歓待」(ジャック・デリダ)といういたってラディカルな政治性すらもちうるだろう。
 そんな「いびつなV」たちの「いびつな◯」のフィールドワークを、『藝術2.0』では行ったといえる。そして新著『GEIDO論』は、それをさらに展開し、「GEIDO」という概念をよりシャープにするために、

酬恩庵

人によってはそれに見紛うかもしれない「限界芸術」(鶴見俊輔)や「民藝」(柳宗悦)といった概念とすり合わせつつ差別化し、フィールドも「性愛」や「貨幣」といった「禁断」の領域へと押し広げていった。
 ついには、千葉県・鴨川での林良樹らの「小さな地球」プロジェクト、そして私が京都で私淑する茶の「陶々舎」の活動に、これまでの文明を「反転」するやもしれぬ潜在力すら嗅ぎ出し、人類とガイアとの共―創造としての新たな文明の気運を探り出そうとした。
 ところが、執筆の最終段になって、突如として、私は車に乗り込み、京都市は京田辺に今はある一休寺こと酬恩庵に赴くことになる。なぜ、私はそこに引き立てられたのか。「一休さん」こと一休宗純こそ、当時の第一級のGEIDO-KAであり、GEIDOの「総合プロデューサー」だったことに突然気づいたのだ。しかも、彼は、GEIDOの探究=行を、同時代の藝道家たちと興じていたのみならず、森女という盲目の琵琶弾きとの睦みのなかでも堪能していたのだった…。

 こうして、古今東西の「冷たい」クリエーションと「熱い」クリエーションが相俟って、「GEIDO」という第三のクリエーションが紡ぎ出されるとともに、本書『GEIDO論』そのものもまた、一つの「GEIDO」であるかもしれぬことを、今これを書きながら改めて実感しているところである。



熊倉敬聡(Takaaki Kumakura)
1959年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒、パリ第7大学博士課程修了(文学博士)。芸術文化観光専門職大学教授。特定非営利活動法人アート&ソサイエティ研究センター理事。フランス文学 ・思想、特に詩人ステファヌ・マラルメの〈経済学〉を研究後、コンテンポラリー・アートやダンスに関する研究・批評・実践等を行う。大学を地域・社会へと開く新しい学び場「三田の家」、社会変革の“道場”こと「Impact Hub Kyoto」などの 立ち上げ・運営に携わる。博報堂University of Creativityにて講師を務める。主な著作に『藝術2.0』(春秋社)、『瞑想とギフトエコノミー』(サンガ)、『汎瞑想』、『美学特殊C』、『脱芸術/脱資本主義論』(以上、慶應義塾大学出版会)、編著に『黒板とワイン――もう一つの学び場「三田の家」』(望月良一他との共編)、『女?日本?美?』(千野香織との共編)(以上、慶應義塾大学出版会)、『practica1 セルフ・エデュケーション時代』(川俣正、ニコラス・ペーリーとの共編、フィルムアート社)などがある。

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自然農とアートにみる生物多様性という生存戦略

2020年オリンピックイヤーが幕をあけた。東京では様々な文化イベントが予定されている。これは2012年のロンドンを参考にしていると言う。私は以前、ロンドンのNPOでコミュニティアートを実践する現場に数か月立ち会った。2004年当時は、オリンピック開催の最終候補都市に選ばれ、早くもカルチュラルプログラムが意識され始めていた。当NPOはイーストロンドンの、移民や低所得者層の多い地域にあった。地域の若者たちの文化的体験を支援しており、あるプロジェクトでは「NEW ROOTS- Young Hackney Voices」として音楽が好きな若者たちに対し、プロで活動するアーティストをコーチに迎え、詩をつくるワークショップから本格的な録音スタジオでの楽曲の収録、CDの制作、それをライブという場で表現するまでの機会を提供した。NPOのギャラリーで行われたライブには、区長や地域の人々が訪れ盛況だったが、ラップまじりのヒップホップを聞いて、涙を流すほどの衝撃を受けたのは私だけであっただろう。そこにはいわゆるマイノリティである彼らの「生きるための表現の場がある」と強く感じたのだ。アートが生き方の多様性を保障しているように見えた。

NEW ROOTS-Young Hackney Voicesライブの様子(2004年)


左:ライブの後は区長と若者たち、地域の人々が歓談 右:プロが立ち会い本格的に仕上げられたCD

さてここから農の話をしよう。「切り干し大根をつくる」と聞いて直ぐにアートのような創造性を、あるいはアートに触れたときのようなひらめきや高揚感を想像できるだろうか。

秋空の下で切り干し大根をつくる

2019年秋、北信州に住む私たちは切り干し大根を作るワークショップを行った。湖と森と山を抱く小さな町での小さな出来事だ。その日、自然農法で米と野菜を栽培する農家「りんもく舎」の畑に集まったのは、鍼灸師、絵本作家、元教師など数名。職種や働き方も様々な人間が集まり、畑から大根を引き抜き、水路で泥を落とし、空の下で包丁やスライサーを持ってひたすら大根を切る。ただそれだけのことだが、皆で手作業を共有すると普段はしない対話が自然と生まれる。
例えば、皆で昔の暮らしを想像してみる。保存食や伝統料理、その背景にある資源循環型の生活が当たり前にあっただろうことに話や想像は及ぶ。あるいは、そもそも切り干し大根を作ることとなった発端を自然農家とともに話し合う。出荷されずに畑に根付いたままの大根たち。自然農は農薬や肥料を使わないため、天候の変化による微生物の動きの影響を受けやすい。その結果、今年は大根の肌がきれいに仕上がらなかったというのがその理由だ。そこには気候変動も身近なものとして浮かび上がり、また、画一的に整うことが求められるスーパーマーケットの野菜たちの姿も、さらには学校教育のなかにある子どもたちの姿も重なってみえてくる。
この体験は、ひとつの作業や事柄を通して、多くの想像を引き出す、新たな視点を得るという点において、まさしくアートにおける体験と似たような感覚をもたらした。

切り干し大根づくりの一連の作業風景



自然農の農家との対話では世界の真理の一端をみるようなことが起きる。ある時、畑の一角で団粒化した土を見せ、バクテリアの仕業なのだと教えてくれた。それは作物の栄養分を生成するバクテリアが生息し、住みやすい環境を生成していることを意味する。
「慣行農業ではいかに害となる菌を排除するかと考えるけれど、ぼくら自然農では、いかに多種多様な微生物を土のなかに生かすかと考えるんだ。多様な微生物が生息すれば一種だけが突出して繁殖し栽培に害を及ぼすということが起きないから。」と言う。彼の畑ではキノコも時折顔を出す。キノコ(糸状菌)が優位に働く土は自然のバランスが整っている証なのだと嬉しそうに話す。「土も草木も野菜も人も、それだけで生きている訳ではなく、いろんなものに生かされて生かし、持ちつ持たれつしながら生きている。単純、単一であることは効率的で便利かもしれないけれど、とても弱い。」ということを畑は教えてくれる。そして、多様性のある世界(土)がいかに美しく、その一部として育ち、共存する様々ないのち(野菜や雑草)の力強さを語ってくれた。
この対話を通して、彼がアーティストと同様な立場にあると感じた。アーティストはいわば世界の多様性を表す存在だ。定常化した社会の理を見つめなおし、異なる角度から表現し、私たちにあらゆる世界の在り方を提示してくれる。

左:枯草や稲藁の下で団粒化した土 右:キノコが生える畑の土 (りんもく舎提供)


自然農では野菜も雑草もいきいきと共存する (りんもく舎提供)



この自然農とアート、あるいは農家とアーティストの共通点は何だろうか。現在日本で自然農を含めた有機農家の割合は農家全体の0.5%に過ぎない。年々増加傾向にあるそうだが全国でわずか1.2万戸だ。(*1)一方アーティストの数は定義があいまいで計り知れないが、国税調査によると「文筆家・芸術家・芸能家」という社会経済分類で871,910人。(*2)ここで想定するアーティストの範囲はその中のさらに一部であるため、随分荒っぽい比較だが、少数派だと思われるアーティストと同様に、もしくはそれ以上に有機農家は極めて少ないことがわかる。有機農家もアーティストも選択的マイノリティとでも言おうか、オルタナティブな視点をもって社会を見てきた少数の人たちなのだ。彼らは今ある社会やシステムに違和を感じとり、ある人は自然農法という技法で、ある人はアートという表現方法で、問いを投げかける。それは藤浩志が自身の作品を「OS作品」というように、あるいは『藝術2.0』(熊倉敬聡著)のなかで小倉ヒラクが「OSとしてのアート」と表現しているように、OSの違いこそあれ、そこにある精神性や創造性という点で共通しているのではないか。そしてさらに言うならば、今まさにそれぞれのOSを持ち寄り、新たな価値を共有する、新たなOSを作り出すといった、いわば創造性の複合形がアートの文脈の内にも外にも増えつつあるように思う。
彼らは、多様性をもち、すべてが循環して複合的に関わり合うなかで奇跡的に世界が成り立っていることを知っている。そして自らも多様性を表出する一部となり、同時に、世界の多様性を持続することを助けているという意味で二重に役割を担っているのだ。
今私たちはとても不確かな時代にいる。グローバル資本主義が引き起こす経済格差、環境汚染、気候変動、自然災害、エネルギー問題、政治的緊張関係から移民、貧困、孤独まで世界共通の課題は枚挙にいとまがなく、しかもそれらは複雑にからみあい、決して他所の問題とは言えない関わりをもって私たちの眼前に立ち現れる。当たり前だと思っていた価値観をこのまま続けていいものか。それに気づいた人から行動を始めている。依然少数であることに変わりはないだろう。しかし、不確かで複雑で先行きがわからない時代だからこそ、少数のオルタナティブな視点をもった人々が新たな光をもたらすかもしれない。生物は時に脆弱な種や能力も持ち合わせながら生き延びてきた。それは変わりゆく世界で何が生き残る手段に変貌するかわからないからだ。生物多様性を担保することこそが不確かな時代を生き延びる戦略であり、それを知っているのが農とアートなのかもしれない。
(文:天野澄子)


*これは決して慣行農業を否定するものではなく、また自然農に携わる農家がすべてこの通りであるとは限らない。アートやアーティストに対する考え方もここで示すものは一部である。
*1)農林水産省平成25年8月発表「有機農業の推進に関する現状と課題」より
*2)国勢調査 平成27年国勢調査 抽出詳細集計(就業者の産業(小分類)・職業(小分類)など)より
参考文献:
『藝術2.0』熊倉敬聡 著(春秋社)
『発酵文化人類学』小倉ヒラク 著(木楽舎)
取材協力:りんもく舎 http://rinmoku.com/

天野澄子(Sumiko Amano)
横浜国立大学教育学部総合芸術課程卒。1997~2013年まで株式会社タウンアートにてアートプロデューサーとしてパブリックスペースにおけるアート計画の企画から作品設置まで多数のプロジェクトに携わる。2004年文化庁芸術家海外研修によりロンドンのアートNPO「Free Form Arts Trust」にてコミュニティアートについて学ぶ。2013年子育てを機に長野県へ移住。現在は公共文化施設計画の設計支援等、アート思考をOSとしてフリーに活動中。

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彫刻に寄り添う時代へ
宇部とミュンスターを訪れて

UBEビエンナーレ会場風景 – ときわ公園内

1.はじめに

全国各地には、地元市民が主体となって身近な彫刻作品の維持活用をする活動が存在している。それらの活動は主に、1960年頃以降から各地公共空間で増加した彫刻の設置事業の後、彫刻の維持活用を趣旨とした市民グループが行政主導で形成されたケースが多い。私はその中でも立川市の市民グループであるファーレ倶楽部に所属しており、その他にも札幌、仙台、府中、清瀬、小平、大分などの活動に加わり、現地の彫刻作品に触れる機会を頂いてきた。いずれの作品も、私自身が生まれた頃か生まれる前に設置された彫刻作品ばかりであり、それらの作品の環境や市民活動、管理体制、設置の歴史もそれぞれの在り方があることを知った。そこには、専門家の中で彫刻が「彫刻公害」や「負の遺産」と揶揄された時代を越え、具体的な市民のコミュニティが洗浄やメンテナンスという活動を通して自身の街の彫刻に価値を感じている、という彫刻と市民との関係がそれぞれに築かれていた。筆者が訪れた地域の中でも、下記のグループは市民が主体的に屋外作品のメンテナンスの方法を作成し、学芸員や地元作家、修復家から専門的なアドバイスを受け定期的な活動を継続している。

札幌—札幌彫刻美術館友の会
仙台—彫刻のあるまちづくり応援隊
立川—ファーレ倶楽部
清瀬—キヨセケヤキロードギャラリーきれいにし隊
宇部—うべ彫刻ファン倶楽部

勿論、各地に多数設置された屋外の彫刻作品は様々な要因により破損や撤去の可能性を持ち合わせており、すべてが維持に十分な環境にはあり得ていない。もはや維持管理の問題は、現状の作品数の多さや素材の複雑性・専門性を考慮しても、上記のような市民のコミュニティや彫刻家ら専門家が、行政と連携して注視していかなければならない課題では無いだろうか。

そこで、昨年から今年にかけて宇部市のUBEビエンナーレとドイツのミュンスター彫刻プロジェクトに対し、現地取材する機会があった。双方ともに、芸術祭の開催とともに公共空間に彫刻作品を現在も残し続けている国内外の代表的なプロジェクトである。私はインタビューのみでなく、できるだけ多くの作品を鑑賞しようと市内を歩き回り、それぞれの街がその作品を維持してきたというエネルギーを現地で実感した。このレポートはUBEビエンナーレ2017とミュンスター彫刻プロジェクト2017の展覧会についてではなく、1960年代から急速に広がった屋外における彫刻作品の設置事業は今までどのように地域と寄り添ってきたのかについて、宇部市とミュンスター市の事例から、現地でこそ実感した大きな違いを踏まえて取材の内容を書き留めていく。

2.UBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)

UBEビエンナーレは1961年から山口県宇部市の常盤公園で開催されているビエンナーレ形式の彫刻展である。1958年の戦後の混乱期(公害問題や空襲被害)の中で、緑化運動の予算の一部で購入されたEtienne Maurice Falconet の<ゆあみする女>(模造)が宇部新川駅前に設置されたことで、彫刻が駅を使用する市民の心を和ませた影響から「宇部を彫刻で飾る運動」が始まる。当時については美術評論家の柳生不二雄、竹田直樹らの調査に詳しいが、「宇部を彫刻で飾る運動」に参画していた当時の宇部市立図書館館長岩城二郎が、土方定一に助言を得たことで具体的に野外彫刻展が始まった。その後岩城や土方の他、当時の星出寿雄宇部市長ら行政関係者や柳原義達、向井良吉といった彫刻家、計16名が「宇部を彫刻で飾る運動」の中央運営委員として組織される。そして1961年から現代日本彫刻展(のちにUBEビエンナーレに改名)を2年に1度開催し、現在まで毎回の入賞作品を市のコレクションとして市内に設置し続けている。入賞審査には美術評論家、作家、宇部市市長などによって選考委員会が組織されており事前に公表がされている。 (屋内外のコレクション作品総数は400点を超え、屋外でも182点の彫刻作品を所有するに至る。)

Etienne Maurice Falconet <ゆあみする女(模造)>

現在、宇部市はビエンナーレの実施とともに、公園整備局の管轄のもとビエンナーレのアーカイブ、教育普及、広報事業が推進されている他、市民グループの「うべ彫刻ファン倶楽部」、「宇部市ふるさとコンパニオンの会」、「UBEビエンナーレ世界一達成市民委員会」の活動によって、市内の彫刻作品は維持活用されている。私は今回、宇部市渡辺翁記念会館・文化会館の山本麻紀子館長、宇部市文化創造財団の田中真由美さんに大変お世話になり、UBEビエンナーレの運営をされるときわミュージアムの学芸員である山本容資さん、また上記の3組の市民グループの皆様をご紹介頂いた。残念ながら、皆さんが一同に参加される彫刻メンテナンスの日に訪れることが出来たものの雨天により作業は中止となってしまったが、皆さんの温かいご対応によりそれぞれにお話を伺う機会を設けて頂いた。

半年に1度作品のメンテナンスを行う「うべ彫刻ファン倶楽部」、また作品のガイドを行う「宇部市ふるさとコンパニオンの会」は、それぞれの参加者に対し、直に作品に触り親しんでもらうことを重要視しているというお話が印象的だった。私は次回のメンテナンスこそ参加させてもらう予定だが、宇部市の彫刻が屋外の環境で年月を経てどのような変化を起こしたのかを実感することは、そのような機会に直接作品に触れることが大切なのだろうと思う。また「UBEビエンナーレ世界一達成市民委員会」の田村委員長は、「今後もUBEビエンナーレに入賞された作家さんに、入賞したことを誇りに思ってもらえ続けられると良い。」と話す。UBEビエンナーレやコレクション作品に関わる地元市民の皆さんから直接お話を聞けたことは本当に貴重だった。何より市民としての作品に対する熱量を感じさせて頂き、危うくそれのみで今回の取材に満足してしまいそうなほどだった。前回のメンテナンスには250名ほどの参加者が集まり、学芸員によって作業記録が取られているとのことだが、国内で最も歴史を持つ野外彫刻展のコレクション作品は、専門的な学芸員と大勢の地元住民とともに時を送り寄り添い合う体制の中にあることは間違いないだろう。なお、うべ彫刻ファン倶楽部のメンテナンス活動は2008年よりこれまで21回実施(21回目は雨天中止)されており、各回20点ほどのメンテナンスを行っている。作業内容こそ公表はしかねるが毎回作成されるマニュアルには、作品ごとに薬品が使い分けられるほど詳細な行程が見て取れる。

宇部市ふるさとコンパニオンの会、ツアーガイド下見の様子

3.ミュンスター彫刻プロジェクト

1977年から10年に1度、ドイツのミュンスターで開かれている国際的な野外彫刻展。現在でこそ世界的な認知がある彫刻展だが、1977年の初回は主にミュンスター市民への教育的意図を持つものだった。1976年、アメリカ人の彫刻家であるGeorge Rickeyの作品が市に寄贈されたことで世界大戦のトラウマを持った市民の中に議論を生んだことが、地元の州立美術館のキュレーターであったKlaus Bussmannに展覧会の必要性を感じさせた。Klausはそのような発端で現在も彫刻展のディレクターを務めるKasper Königとミュンスター彫刻プロジェクトを開始するものの、当初は長期的な計画を持っているわけではなかったという。

当時の行政が経済利益を理由に、カッセルで開かれる芸術祭「ドクメンタ」と同じ5年間隔、同年の開催を提案したところKasperは反対し、10年に1度というペースが彫刻と社会の関係また彫刻自身の変化を感じる上で適当と主張する。私は今回の開催で初めてミュンスターを訪れたが、この趣旨に共感しとにかく多くの作品に触れ、10年後の開催に向けてひたすら写真に収めた。出品作品とパブリックコレクションを含め70点以上の作品を鑑賞したが、観光者向けの自転車のレンタルサービスと、スマートフォン用のマップアプリがなければこれらの半分程度しかまわれなかっただろうと思う。(2017年の今回で第5回開催となるが、1977年に3点、1987年に21点、1997年に8点、2007年に7点の出品作品がミュンスター市によって購入、屋外に常設設置がされている。) 尚、ミュンスター市へパブリックコレクションの維持管理について取材をしたところ、パブリックコレクションは彫刻展の出品作品から専門家や市議会の関与を通して選出され、ミュンスター市によって体系的に管理されており必要に応じて年に1-4回の点検が行われているという。その点検で発覚したものかは不明だが、Martha roslerの2007年出品作品“Unsettling the Fragments(Eagle)”が偶然修復中であった。また、コレクションは都市計画、都市開発の中で重要な機能を果たしてきたとのことだ。

Martha rosler

ミュンスター彫刻プロジェクトは、前述した発端のエピソードを背景に一貫して「芸術と公共性」というテーマを持ち個々にメッセージ性を持つ作品が多い。地元の共有庭園の利用者に毎日綴らせた日記を展示するJeremy Dellerや、過去の保守的イメージが特徴的なミュンスターの街中でタトゥーショップを開くMichael Smith、反核デモの指導者Paul Wulfの像を製作したSlike Wagnerらの作品は特に印象に残った。これらの作品は実際に地元住民の参加によって成立しており、特に2007年製作のSlike Wagnerの作品は2017年までのPaul Wulfに関連した新聞記事が重ねて貼り付けられていることで成立している。一方で重要なことは、Kasperはいわゆる「街が美術館になる」ことに反対しており、彫刻展の前提として作品が永久的に存在しうる場所になってはいけないことを意味し、出品作家には作品の要素として時間性を重んじている。これは、上記の3名の作品もある一定の時間に生まれたものだからこそ価値を有している作品であるものだととらえて良いだろう。つまり今回のポイントとして、芸術と公共性を主題とした作品を観客に見せる彫刻展の主催側と、恒久的な常設作品を購入する行政側のスタンスは明らかに違うことが分かる。

 

4.まとめ

宇部市とミュンスター市においては、彫刻が公共空間に設置される経緯が彫刻展の主催者と彫刻の購入者(管理者)の関係を見ても異なることは確かである。それは、宇部市の「ゆあみする女」に期待を寄せた当時の行政/市民に呼応した土方定一と、“Three rotating squares”を問題視した市民を納得させることを試みたKlausとKasperの存在から大きく異なる方向性を持っていたように思う。さらには、第二次大戦の敗戦を経験した2つの地域であるにも関わらず、きっかけとなる彫刻への反応が双方で異なるという視点も可能だろう。

その他にも国内外の野外彫刻展を比較し、関連の市民コミュニティの有無や行政と主催者の関係など、異なることが多いことが分かった。しかし、宇部の市民が作品に直に触り維持をしながら親しんでいることと、ミュンスターのKasperが彫刻展の間隔にこだわりを持つことに共通するものを感じた。触れるだけでなく定期的に洗浄やメンテナンスという形で作品を深く観察し続けることも、10年という長い間隔で彫刻展が開かれることも、時間や環境とともに変化をする彫刻に人が関わるということなのだと再認識することが出来る。

Kasperと筆者

今回の2度の旅を通して、公共空間に設置された彫刻とは野外彫刻の一出品作品である前に、都市開発やまちづくりの要素である前に、作家によって作られた、私たちの生活と同じ次元で日々変化をする具体的な素材や概念的な要素によって構成された「作品」であると強く思わせられた。彫刻に寄り添うということは、彫刻の変化を感じ尊重することであり、その上で維持活用のような活動はされるべきなのだろうと思う。次回のうべ彫刻ファン倶楽部のメンテナンス活動と、10年後のミュンスター彫刻プロジェクトには必ず参加したい。

(文:高嶋直人)


高嶋直人 (Naoto Takashima)
1990年生まれ。静岡県出身。武蔵野美術大学造形学部芸術文化学科卒業。同大学造形学部彫刻学科黒川研究室清水多嘉示研究研究員。都内の他、札幌や仙台など各地の屋外彫刻やパブリックアートについて、市民活動の実践を交えながら作品の状態や活用方法などの調査を行う。ファーレ立川プロジェクトボランティアグループ、「ファーレ倶楽部」会員。屋外彫刻調査保存研究会運営委員。

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|ヨコハマトリエンナーレ2017|
オラファー・エリアソン《Green light―アーティスティック・ワークショップ》


〈グリーンライト〉が形成する「we-ness(私たち感)」

1)《Green light―アーティスティック・ワークショップ》後の会場


1 社会に関わるアートの祭典 〜 ヨコハマトリエンナーレ2017 島と星座とガラパゴス 「接続」と「孤立」をテーマに、世界のいまを考える
 ヨコハマトリエンナーレ2017は、「島と星座とガラパゴス-接続と孤立」をテーマに、2017年8月から11月まで、横浜美術館、横浜赤レンガ倉庫1号館、横浜市開港記念会館を主会場として行われている。その運営は、一人のディレクターをおかず、三木あき子ら3人の共同ディレクションである。また、トリエンナーレの構想は、養老孟司、鷲田清一、リクリット・ティラヴァーニャ、スプツニ子!など、それぞれ異分野で日本を代表する知識人やアーティスト、海外のアートディレクターなど、7人の構想会議のメンバーによって行われている。会期前から会期中にかけて、様々なゲストを招いたトークセッションであるヨコハマラウンド等、たくさんのイベントが行われる。総じてこのトリエンナーレ自体が協働的な作業の成果であり、一つの焦点を結ばない多中心的で多義的な構造となっている。今、日本は毎年たくさんの国際展が行われる状況にあるが、日本における国際展の草分けとしてのヨコハマトリエンナーレは、単にアートの祭典ではなく、広く現在の日本の状況を反映し、そこでの様々な社会的課題を取り上げたものとなっている。特徴的なのは、横浜美術館のファサードを飾るアイ・ウェイウェイの難民の救命胴衣やゴムボートの作品が象徴するように、社会と関わるアートを前面に出していることである。

 横浜美術館館長でディレクターズの一人逢坂は、今回のトリエンナーレのキーワードとして、「孤立した人々をつなぐ」「伝統と現代をつなぐ」「横浜の歴史、世界の歴史を複数の視点で読み解く」「異文化の混交」「意外な接続」「国家、土地、所有、境界」「震災、福島、記憶」「個と集団」「個人史と接続」の九つをあげている。数多くの出品作品をそれらのキーワードで観ていくとよいだろう。

2) 展示室の様子

福島第一原発事故を扱ったDon’t follow the windや川久保ジョイ、東日本大震災を扱った畠山直哉や瀬尾夏美、戦争の歴史を扱ったワエル・シャウキー、ブルームバーグ&チャナリン等、興味深い作品は多数あるが、ここでは、オラファー・エリアソンの《Green light―アーティスティック・ワークショップ》を紹介する。ヨーロッパの難民問題を契機に2015年から構想されたこのプロジェクトは、2016年からウィーン、ヒューストン、ヴェネチアで行われている。横浜でも会期中に何度かワークショップが行われ、展示だけでなくその全体が今回のトリエンナーレの作品となる。

2 ワークショップとは
 この分野のパイオニアである中野によれば、「ワークショップ」という語は、もともと「仕事場、作業場」の意味であり、演劇や美術、まちづくりなどの分野で様々な実践が行われてきており、「講義など一方的な知識伝達のスタイルではなく、参加者が自ら参加・体験して共同で何かを学びあったり創り出したりする学びと創造のスタイル」であるとまとめている。そこでは、「参加」「体験」「グループ」がキーワードであり、参加者同士の相互作用や多様性の中で、双方向的、包括的に学習と創造が目指される。ワークショップは、教育におけるアクティブ・ラーニングの動向とも関連し、現在各方面で盛んに行われている。

3 《Green light―アーティスティック・ワークショップ》
 実際そこでは、何がおこなわれているだろうか。ウィーンやヴェネチアでは、難民の方がスタジオ・オラファー・エリアソンのスタッフや地元のボランティアとともに緑に輝くランプ〈グリーンライト〉を作る作業に携わった。完成した〈グリーンライト〉は、250ユーロで販売され、その収益は全額難民支援に当てられる。ワークショップではランプの製作だけでなく「Shared Learning(共有された学び)」が行われる。その国の言語の習得(ウィーンならドイツ語、ヴェネチアならイタリア語)、身体表現、音楽、スポーツ、セラピストによるカウンセリング等の複合的な内容で、コミュニティに溶け込むことを目指す。ワークショップでの学び合いは双方向的で、教師と生徒という関係ではなく、全員が教え、学ぶ立場にあり、難民と支援者との双方向的で対等な関係を目指す。

3) 理解講座

 横浜ではShared Learningは、難民を助ける会や難民支援協会、移民の若者支援組織kuriya等の協力を得て、「理解講座」として8月から9月に行われている。トリエンナーレのサイトで募集された参加者は、理解講座を通してシリアの難民問題や、難民を受け入れる地域の立場で考えるワークを行い、日本で生活する移民の若者達のライフヒストリーを学んだ。10月にも意欲的なワークショップの企画が予定されている。

4 グリーンライト
 〈グリーンライト〉は、オラファー・エリアソンの長年の友人で共同研究者であったアイスランドの
建築家・数学者エイナール・トルシュタインの長年の研究成果から生まれた十二面の幾何形態である。 重なる二つの立方体を想定し、頂点を通る対称軸で回転してずらしていき、互いの立方体の二つの面が 交わる際にできる二本の稜が黄金比で分けられるところでカットした形態である。ランプは、18本の三 角材と8つのプラスチックジョイントからなる。三角材の表面は緑の染料でグラデーションに彩られた ものや白木のもの 3 パターンある。角材の内側はLEDの光を反射するよう白い塗料で塗られている。そ の内部には、緑と白どちらかの色の糸が、外形と呼応するリズミカルなパターンで張られており、優美 な形態を見せる。その美しさは、グリーンのLEDを入れることで一層際立つ。

4) グリーンライトに至る探究の過程の模型



 Green lightは「青信号」の意味である。緑に光るランプは、様々な苦難を体験している難民を受け入れる歓迎の気持ちを表し、自由や希望の象徴でもある。単体でも美しい〈グリーンライト〉だが、複数を組み合わせることで複合的な形態に発展していき、多様なアレンジが可能である。組み合わされた〈グリーンライト〉の総体としての形の展開の複雑さや意外さ、そしてそれでもなお統一感を失わない全体の形態は、異なる背景を持つ個人個人が集まり、多様さを保ちながら調和するインクルーシブなコミュニティという構想の最適なメタファーとなる。

5) グリーンライト(LED装着前)



5 「we-ness(私たち感)」とは
 ヨコハマトリエンナーレに寄せたビデオメッセージの中でオラファーは《Green light―アーティスティック・ワークショップ》が「包摂」をテーマとしており、強制移住、難民、周縁化された人々、強制移動、社会から排除された人々の問題に向けたプロジェクトであることを説明している。ここで繰り返し用いられるのが「we-ness(私たち感)」という言葉である。このwe-nessとはなんだろうか。オラファー・エリアソンはウィーンの文化財団TBA21が企画したイベントで、コペンハーゲンにある名門オーフス大学の人類学者・生物学者アンドレアス・ロストーフと対談している。ロストーフはこの中で、心理学の最新トピックであるwe-modeについて語っている。ロストーフの同僚で共同研究者である哲学者ガロッティと脳神経科学者フリスが提唱したwe-modeは、人間の個体の認知を個体間に拡大する革新的な概念である。この領域の近年の研究では、人間同士の相互作用について、独立した個体同士の1対1のシステムとしてではなくインタラクション自体を1つのシステムと捉え、互いの社会的認知能力を拡張し学習可能性を高めるものとして捉えられるようになった。人同士がインタラクションすることによる効果は単なる加算効果ではなく、それ以上の機能的役割があるということである。オラファーはこの概念を気に入り、それを学術用語のwe-modeではなく、発達心理学者のトマセロも用いているより一般的にわかりやすい言葉としてwe-nessを用いていると考えられる。

6 場のデザインと実践の力
 「アーティストのスタジオは、実践の場であるがゆえに、たった一つの行動が、100個分のアイデアの100倍のパワーを持つのです」
「考えを語っただけで実践した気分になっている人がよくいますが、語るだけでは何も起こりません」

 美術手帖2017年7月号のアーティスト・インタビューで、オラファーは、繰り返し実践することの重要性を語っている。おそらく、6月のヴェネチア・ビエンナーレのオープン時に《Green light―アーティスティック・ワークショップ》に寄せられた、難民を見世物にしている等の様々な批判を意識したものだろう。

 ワークショップの場は、スタジオ・オラファー・エリアソンによってデザインされた〈グリーンライト〉と共通する緑色や幾何学的なパターンが用いられた机や棚が配置され、統一感がある。机の両端は60度にカットされ、直線的に並べたり120度に配置したり、多様なレイアウトが可能である。二つの机の120度の広がりは人が快適に収まることができる空間を生み出す。机の幅は二人の人が協力して作業するのに狭すぎたり広すぎたりせず適度な奥行きである。その快適さは、二人の人が協力する環境という「共通アフォーダンス」を提供する。

6) スタジオ・オラファー・エリアソンデザインの作業用机


 

7) 二人で協力して糸を張るワークショップ参加者

1個の〈グリーンライト〉の組み立てには、必ず複数の人が必要になる。木材とジョイントによる構造は、多少力とコツがいるが一人でも組み立てられる。難しいのは、その内部に張り巡らされた糸である。適切なテンションを保って糸を張るには二人での協力が必要である。しかもそれはマニュアル化されていない。あくまでも作業による手続き記憶としての身体化を通して学ばなければならない。そこに生じるのは、自然に二人の人間が協力をする状況を作り出す「共同アフォーダンス」である。二人は言葉がうまく通じない場合もあるかもしれないが、なんとか意思の疎通を行なってランプの製作という共同の作業に従事し、完成という共通の目標に向かう。

7 二人称アート
 ビデオメッセージの最後に、オラファーは「あなた」と「私」だけでも関わることができると語り、「あなた(You)」と「私(I)」を強調している。あなたと私の二者の関係から何かを始めるのは、一見当たり前のようである。だがその背景にあるのは、人間の心をめぐる学問の進歩である。心を研究する心理学は、19世紀末の自らの心の中を内観する一人称的な研究法から、20世紀に客観的に外側から人の行動を観察する三人称的な手法に移行し、長い間それが科学的であると信じられてきた。ところが、20世紀末にf-MRI等で生きた人間の健康な脳の活動が観察できるようになり、ミラーニューロンの発見があって、21世紀になってようやくあなたと私の二人称的な研究の重要性に気づくことになる。二人称神経科学や二人称認知心理学といわれる学問の誕生である。そして、人間同士のインタラクションによってwe-modeという特別な認知モードへとシフトし、個々の能力の総和を超えた集合的な認知モードが、大幅に学習効率を高めるらしいことがわかってきた。「あなた(You)」と「私(I)」のインタラクションは共同行為を「私たち(we-ness)」として一緒に達成しようとすることで心の共有を可能とし、人間の可能性、創造性を高める。アートは、そのための実践の場を提供することができる。このことは、なぜ参加型アートが重要なのかの根拠となる。科学における二人称科学への転回に倣い、このようなアートを「二人称アート」と呼ぶことにしたい。社会に関わるアートの実践、特に東日本大震災以降の日本のアーティストの活動におけるコミュニティとの関係や当事者性について考える際に有効だろう。

8 エージェンシーと共愉性

8) 組み合わされたグリーンライト


 具体的な存在があるアートは共有がしやすい。〈グリーンライト〉は、目に見える共有しやすい思考の外化物である。「全ての〈グリーンライト〉はエージェンシーを持つ」とオラファーが語っているように、〈グリーンライト〉は、地域の家庭やオフィスに飾られることにより、歓迎や希望、自由というそのメッセージを発し続ける。光に惹かれる人間の習性と安心感を与えるグリーンの光、世界共通の青信号、黄金比を用いた幾何形態という審美的なオブジェクト、それらの要素はそれぞれ普遍性を持ち、人種や文化、宗教の違いを超えた価値の共有を可能にする。

9) 組み合わせることで多様な形態への展開ができる

異なる背景を持つ人々と出会うことは、自らが新たな世界に開かれることになる。そして本来、人間にとって学ぶことは楽しい。仲間とともに学び、知らなかったことを知り、できなかったことができるようになることは、人間にとって適応的であり根源的な喜びだろう。オラファー・エリアソンの《Green light―アーティスティック・ワークショップ》は、このような共愉性(コンヴィヴィアリティ)をもっている。そこでは、その場にいる人々が様々な違いを乗り越えて共に楽しむ共愉的共同体が色々な場面で実現しているのを見ることができる。

 考えたり、アイデアを語ったりしただけでは世界は変わらない。人々が協働することは、個々の能力の総和をはるかに超えるパワーを生み出す。様々な社会的問題や環境の問題がこれまでにない規模で起こり続ける現代においては、何よりも実践することが大事なのである。
(文:細野泰久)




中野民夫 2001 ワークショップ ― 新しい学びと創造の場 岩波書店
アーティスト インタビュー オラファー・エリアソン ヒエラルキーのない、思考と実践をつなぐ場
(聞き手:伊東豊子) 2017 美術手帖 2017年7月号 美術出版社
板倉昭二 2016 We-mode サイエンスの構築に向けて 心理学評論 Vol.59, No.3 心理学評論刊行会
Eva Ebersberger, Daniela Zyman 2017 Olafur Eliasson – Green Light – An Artistic Workshop Sternberg Press

ヨコハマトリエンナーレ2017 http://www.yokohamatriennale.jp/2017/
ヨコハマトリエンナーレ2017 オラファラー・エリアソン ビデオメッセージ https://youtu.be/cPJG83bSpjs
Studio Olafur Eliasson   http://olafureliasson.net/
Green light – An artistic workshop  http://olafureliasson.net/greenlight/

*写真1〜9 撮影:細野 泰久
オラファー・エリアソン
《Green light-アーティスティック・ワークショップ》(部分)
 
Olafur Eliasson
Green light – An artistic workshop.
In collaboration with Thyssen-Bornemisza Art Contemporary
(detail)
Co-produced by Thyssen-Bornemisza Art Contemporary ©Olafur Eliasson

細野 泰久(Yasuhisa Hosono)
美術教育研究 特別支援教育研究  ヨコハマトリエンナーレ2017 《Green light−アーティスティック・ワークショップ 》インストラクター
東日本大震災をきっかけに社会と関わるアートの実践をフォローし、ソーシャル・プラクティスとその教育への応用を研究している。

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S.O.S.レポート「オルタナティブ・スペースが還るとき」

ツアー当日、出発場所となっていたアートラボはしもとではS.O.S.のメンバーによる関連企画「SOMETHINKS Planning by ARTISTS」展が開催されていた。

ツアー当日、出発場所となっていたアートラボはしもとではS.O.S.のメンバーによる関連企画「SOMETHINKS」展が開催されていた。


「オルタナティブ・スペース」という言葉をあちこちで聞くようになって久しい。一見すると定義がし難いように見えるが、例えば千代田アーツ3331のように、ひとつの場を展示スペースとしてはもちろんのこと、講演会やワークショップ、そしてオフィスや地域住民の集会所など、表現活動に派生した様々なアクティビティを行う場と考えて良さそうだ。
 今日、このようなオルタナティブ―すなわち多様な芸術表現を受け入れるための場は、アーティストのみならず市民をも巻き込んで、「アート」の既成概念を拡張する土壌となりつつある。見る/見られる者、表現する者/それを支える者といったあらゆる境界を統合しつつ、時には祭事的な色を湛えながら、オルタナティブ・スペースは開かれた場として芸術と一体化しているのである。
 言うまでもないことだが、表現の場をめぐる格闘は20世紀の芸術を語るうえで重要な位置を占めてきた。戦後、物理的・制度的制限のあるホワイト・キューブを踏み越えたアーティストたちが新たな表現の場を模索し、そのムーヴメント自体が社会やコミュニティを生成する役割を担ってきた。例えば、2000年代初頭から日本各地で開催されるようになったアートフェスティバルという形式は、その系譜を受け継ぐムーヴメントと言ってもいいだろう。とある場を舞台に、作品を介して人と人が出会い、関係性を構築する。作品は一連のプロジェクトの仲介役としての役割を果たし、作品鑑賞を含めた「その場での体験」そのものに価値が見いだされる。ニュートラルかつ“鑑賞体験の純粋性”1を志向したホワイト・キューブから、オルタナティブあるいはサイトスペシフィックな場、そしてそれをもとにしたヒト・モノ・コト間の関係性の構築へ————。このような変遷を踏まえて、以下改めてアートと場の関係性について考えてみたい。というのも、先日伺った相模原のプロジェクトが、この文脈において新たな表現の場の「見方」を示唆しているように思われるからである。
 SUPER OPEN STUDIO(通称S.O.S.)は、神奈川県北部の相模原で活動するアーティストのアトリエを一般に公開するプロジェクトとして、2013年にスタートした。その制作から展示に至るまでの包括的な活動を作り手自らが組織するムーヴメントとして注目を集めている。アーティストの制作現場における展示というと、例えばヤン・フートが1986年に行った「シャンブル・ダミ(Chambres d’Amis:友人の部屋)展」が挙げられるだろう。ベルギーのゲント市の家々を舞台として、フートと面識のある国際的なアーティスト51人がそれぞれの家で制作・展示を行った画期的なキューレーションである。期せずしてこの展覧会は地元アーティスト主催の展覧会を誘発する効果を生み、オルタナティブ・スペースの代表例として知られることとなった。言わばキュレーターがアーティストの自主展覧会の起爆剤としての役割を担ったわけである。
 一方、S.O.S.は相模原に拠点を持ったアーティストが、日頃制作の行われている“実際の”アトリエ(S.O.S.ではスタジオと呼んでいる)を舞台に、キュレーターではなく“彼ら自身の手によって”企画・運営が組織されているという点で、前者とは一線を画している。昨今はTAV GARELLY2やART TRACE GARELLY3など、若手アーティストがひとつの場を基盤として活動するオルタナティブ・スペースが増加しているが、S.O.S.もその一例と言えるだろう。どれも展示活動に派生したアクティビティを、資金調達・運営手法の確立等によって実現可能にしている先例である(左記の過程は、アーティストが自律し、その表現の独立性を保持するためには欠かせないことは言及するまでもない)。
 今回、秋季に開催された「スタジオビジット・ツアー」に参加し、計9か所のスタジオを巡った。インターネットで応募した参加者が貸し切りバスに乗って、1日をかけ各スタジオを巡るというプロジェクトだ。今年度S.O.S.に参加しているアトリエは23組、アーティスト数は述べ110人を越える。相模原市の事業として運営されていた2年間を経て、S.O.S.は2015年からアーティストによって組織された団体「Super Open Studio NETWORK」がセルフオーガナイズしている。ツアー参加者は、美術大学に通う大学生、キュレーター、美術愛好者等で、なかにはアメリカのアートフェアから来たという関係者もおり、実に幅広い。貸し切りバス車内の程よい緊張感は、コーディネーターの久野さん(作家であり、「studio kelcova」のメンバー)のお話を聞くうちに和気藹々とした雰囲気に変わり、ツアーは終始和やかなムードで進行した。

 相模原は政令指定都市として県内で第3位の人口を有し4、東京都南部との県境に位置するベッドタウンである。関東有数の米軍施設拠点・工場地帯として、また多摩美術大学、東京造形大学、女子美術大学、そして桜美林大学が群立する文教地区としての顔を持ち合わせるこのエリアは、3,40代がその人口の基盤を占める5。その一成員であるS.O.S.のアーティストは、先述した大学の卒業生が多く、それに派生したコミュニティを形成しているようだ。彼らは閉鎖された工場の建物などをスタジオとして再利用し、制作を継続している。衣食住を共にするところもあれば、制作のみ、作品の収蔵庫として使用する人もいるが、ビジネスライクな関係というよりは、たまに食事を共にする友人のような(もちろん家族のようなところもあった)、程よい距離感が構築されているように見えた。

セクシュアリティをテーマにした長尾郁明氏の作品(TANA Studio にて)。ポルノビデオの女性器のイメージをグリッドに還元している。

セクシュアリティをテーマにした長尾郁明氏の作品(TANA Studio にて)。ポルノビデオの女性器のイメージをグリッドに還元している。


 久しぶりに友人の家を訪ねるような気軽さでスタジオに案内されると、アーティストが茶菓子を用意してにこやかに出迎えてくれた。或いは、こちらに脇目も振らず制作に熱中するアーティストの横を、「目撃者」として通り過ぎる時もあった。総じて言えるのは、画廊や展覧会を見に行く時のような、「見る者」と「見られる者」という明快な境界線がないということである。或いは、非日常としてのキューブのなかで、「作家」や「作品」と対峙する時のような、どこか“特別な”演出も一切無い。彼らはただ「作品を作る人」として、そこで出迎えてくれる。メンバー同士では普段どんなことを話すのか、建物を改装した時のハプニングや、近所の人が差し入れを持ってきてくれたこと、買い出しが少し不便なこと、そしてその延長線上で制作に繋がる自分のエピソードや、作品に込めた思いが紡がれていく。驚くほど自然に、隣人としてのアーティストの本音を聞くことができるのだ。お互いが話し、耳を傾け合うことで、一人ひとりの作家と対等な距離感でコミュニケーションをとることができる。もちろん先述したように、関係者も来ているので、この機会を機に自分を売り込むこともできる。拠点は相模原としつつ、銀座などのギャラリーで発表をする者も当然いる。つまり、あくまで拠点を相模原に置くことのみが共有されているコミュニティなのである。S.O.S.の代表である山根一晃氏はステイトメントのなかで以下のように述べている。「様々なアーティストが異なる目的のもとに集い、同じような風景の下、同じような食堂でご飯を食べる。そして、この相模原という場所をハブとして、各々がめざすものの為にそれぞれが自らの意思と責任のもと動いていく」。6このように、スタジオという場を起点としたメンバー同士のゆるやかで独立した個人からなる連係が、また新たなアトリエ同士の連係を生み、それが地域住民との共同体へと円環状に波及しているのだ。
 当たり前のことのようでいて、とりわけ日本の社会では、このようなフラットな関係性のなかでアーティストと対峙することは難しかったのではないだろうか。昨今東京藝大の“特殊性”について取り上げた本が話題となったように、アーティストをどこか別世界の存在として、才能や独創性という言葉で区別してしまう傾向は、未だ確かに存在する。昨今のアートフェスティバルも、地域の持つ自然や建造物、温かな人間関係等とアートの共存を目標とする傾向にあるが、そこに展示される作品は“地域の魅力を引き出すことを目的としたアート”であることが多い。それらが良いか悪いかはさておき、あるテーマをもとに輸入されたキュレーション・プロジェクトであることには変わりない。その点、S.O.S.は、相模原という場を基盤として、まずアーティストがそこに拠点を置くことから始まっている。スタジオを構え、地域の人々と隣人として交流し、生活する延長線上に作品制作がある。アウトリーチの結果としてではなく、自然発生的なエンゲージメントの結果として、アートが緩やかに内在する共同体が形成されつつある。
「pimp studio」にて。自動車修理工場を改装したスタジオで、現在11人のメンバーが集う。

「pimp studio」にて。自動車修理工場を改装したスタジオで、現在11人のメンバーが集う。

 日本のアートプロジェクトは現在、2020年のオリンピックに向け発展の途にある。それは同時に、高齢化に伴う諸地域の過疎化、地方産業の衰退、あらゆる文化施設予算の縮小等、山積する問題の切り札としてのアートが推奨されていることを意味する。官民恊働や国際規模でのプロジェクトは、様々なアーティストを奮起させ上述した危機の打開策となる可能性を持つだろう。しかしその一方で、近現代で議論されてきた先導̶追従の垂直的な構図をなぞる危険を孕んでいることは、既に論じられている通りである。S.O.S.は、先述したステイトメントのなかで、彼ら自身の活動を「アートという場のインフラ整備」だと語っている。明確なオピニオンのもとに集った集団でもなければ、地域おこしのためのプロジェクトでもない。ただひたすらに、異なるアジェンダを持ったアーティストがひとつの場に共存し、静かに、しかし着実に相互関係を構築しているのだ。元来共同体にとって、土地は彼らの“包括的な基盤”7であり、根ざす場なしにその継承は困難であった。土地を拠点とした生産活動を営み、その上で個人としての活動をも並行させる共同体は、中長期的なアートの“インフラ整備”を遂行させる上で重要なムーヴメントとなり得るだろう。その意味において、今日における表現の「場」との関わり方は共同体の命脈を左右する重要なファクターである。大地が肥沃に還るその時こそが、時代の起点となるのではないだろうか。
(文:高橋ひかり)



1 ホワイト・キューブ 現代美術用語辞典ver.2.0 http://artscape.jp/artword/index.php/ホワイト・キューブ
2 専属キュレーターがそれぞれのキュレーションによる展覧会を行うギャラリーとして2014年に始動。展示スペースのほかに、ワークショップやイベント等を行うLAB SPACEを有する。http://tavgallery.com
3 NPO「ART TRACE」を母体とした、両国にスペースを持つアーティストラン・ギャラリー。武蔵野美術大学OBOGの主要メンバーを主軸に、期ごとに参加メンバーを公募、展覧会を主に講演会やワークショップなども行われる。同母体の関連事業としては林道郎著「絵画は二度死ぬ、あるいは死なない」シリーズを出版するART TRACE PRESSなどがある。http://www.gallery.arttrace.org
4 神奈川県の人口と世帯 神奈川県ホームページ…http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f10748/
5 平成27年1月1日現在。…http://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/toukei/20998/jinko/nenrei/index.html
6 『SOSBOOK 2016』, p4
7 大塚久雄著『共同体の基礎理論』岩波書店,2000年, p12

高橋 ひかり(Hikari Takahashi)
1995年生まれ。神奈川県出身。武蔵野美術大学芸術文化学科在籍。2014年より絵画制作活動を開始、アーティストランギャラリー・ART TRACE GALLERYにおける個展等7回の出展を経て現在 に至る。アートムーヴメントにおける共同体の自律性・持続性に興味を持ち研究をすすめる。

 

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オルタナティブ・スペースが “オルタナティブ(代替)”ではなくなるとき

近年、東京をはじめとする都市部よりも自然豊かな地域へ移住したり、将来的に移住を考えているという若者が増えているという。(1
こうした傾向は、例えば東日本大震災以後人々の関心が資本主義における消費活動だけではなく、より心理的な豊かさを求めて自らの生活を構築し始めているという表れなのかもしれない。
一方で国内の現代アートでは特に2000年代以降、アートプロジェクトも盛んに行われるようになり、近年各地で開催される国際美術展もその潮流のひとつと見ることができる。これらを一概に関係付けることは難しいかもしれないが、美術館やギャラリーから離れてサイトスペシフィックな場でアートを鑑賞する、またはそうした活動自体に関わるという経験は、上述のような都心を離れた地で生活を築こうとする志向とどこか重なるのではないだろうか。
さかのぼれば9.11を皮切りにグローバリズムに対する懐疑の念が高まり、自国に眠る土着的な文化を再構築しようとするナショナリズムが再考されているとも言える。そして現在私たちが置かれている状況を受け止め、画一的な経済的成長ではなく柔軟にその規模を縮小させることで“量”から“質”へシフトしていくことは次代を担う人々にとっての課題なのかもしれない。(2

現在のオルタナティブ・スペース
美術において鑑賞の場が美術館やギャラリーといったいわゆるホワイトキューブを制度批判的に脱した例としては欧米では1960年代のランド・アートなども挙げられる。国内においては美術のみならず社会システムに対するアナーキーな文化動向として1950年代からはじまる野外美術展などの傾向も参照できるだろう。(3
そして自らの手で作品発表の場を立ち上げていく動きもある。1969年からマンハッタンのグリーン街にアートコレクターの支援を受けて始まった「98 GREENE STREET」は、アンディ・ウォーホルやジャスパー・ジョーンズ、ゴードン・マッタ=クラークなど、様々なアーティストたちが交流する場となっていた。更にマッタ=クラークは1971年にソーホーで数名のアーティストと共に「FOOD」というアーティストランのレストランをオープンする。(4 このように美術館や画廊など既存の制度にはとらわれない多用途なスペースはオルタナティブ・スペースと呼ばれ、実験的な活動を支援する場となった。
そして欧米を出自としながら日本でも様々なオルタナティブ・スペースが誕生した。代表的なものとしては、多くの若手アーティストに発表の機会を提供した「佐賀町エキジビット・スペース」や、美術のみならず演劇や音楽などジャンルレスに活動を行う「BankART1929」などが挙げられるだろう。
更に美術評論家の福住廉はオルタナティブ・スペースの大きな特徴として、そこがアーティストにとってのある種のたまり場になっていることを指摘している。(5

ここでは比較的新しいオルタナティブ・スペースをいくつか取り上げてみたい。
後述することではあるが、これらを広義にオルタナティブ・スペースと呼ぶことはできるものの、その形態や運営者の認識は様々であるということは予め断っておく。

ナオナカムラ

(左)天才ハイスクール!!!!展覧会「GenbutuOverDose」撮影:森田兼次 (右)笹山直規+釣崎清隆展覧会「IMPACT」撮影:酒井透

(左)天才ハイスクール!!!!展覧会「GenbutuOverDose」撮影:森田兼次
(右)笹山直規+釣崎清隆展覧会「IMPACT」撮影:酒井透


1990年生まれの中村奈央がディレクターを務めるナオナカムラは高円寺にある「素人の乱12号店」スペースにおいて、これまで不定期ではあるがキュンチョメや中島晴矢など有望な若手アーティストの個展を開催してきたギャラリーである。整備されたホワイトキューブではなく既存のビルの一室にオープンするナオナカムラだが、空間的な問題を物ともせずに骨太な展示ばかりだ。その多くの作品が半ばアーティストの個人史に依存している印象を受けるが、それは彼ら自身と向き合い続けるディレクター中村の熱意の現れでもあり、作品とじっくり対峙させてくれる時間を生み出すギャラリーの色なのかもしれない。

TAV GARELLY

写真提供:TAV GALLERY

写真提供:TAV GALLERY


TAV GARELLYは、アーティストではなく、キュレーターが所属するギャラリーとして2014年にオープン。展示におけるギャラリーとアーティストの関係性にキュレーターという存在を介入させることで、より多角的なアプローチを考察していく実験的な場となっている。それ故に従来のコマーシャルギャラリーでは難しいような展示形態や、発表の機会を得にくい若手作家などを積極的に巻き込んでいる。こうした試みを可能にしているのは、TAV GALLERYはギャラリー経営会社が所有するビル1階に入居しており、2階から4階がペアレンティングホームとなっていることで、作品販売に依存しない運営システムを築いていることも大きい。

カタ/コンベ

撮影:新井五差路

撮影:新井五差路


中野にあるカタ/コンベは2012から始まった若手アーティストが集うシェアアトリエである。通常は入居メンバーによるアトリエであるが、定期的にゲストアーティストを迎えた展覧会を開催。オートロックマンションの地下室というアクセスの難しさも感じるが、展覧会開催時には多くの人で賑わう。印象派やシュールレアリストにそれぞれ拠点があったように、作家活動を行う上で自分たちの場所が欲しかったことが現在の形式をつくりあげたきっかけだという。展覧会は週末の2日間しか開催されないため、多くの出展者もその場に集まることで濃密なコミュニケーションが生まれている。

あをば荘

写真提供:あをば荘

写真提供:あをば荘


墨田区にあるあをば荘は「墨東まち見世2012」に参加したアーティストユニット佐藤史治+原口寛子によるプロジェクト会場となったことをきっかけに、2階を住居としながら1階では展示やイベントを開催しているスペースだ。美術だけでなく多様なジャンルの運営メンバーが関わることで、演劇公演やクラフト販売など様々な催しを行っている。周辺地域といかに関係を築くかを重視しておりHPなどでの対外的なアピールでばかりではなく、ご近所付き合いの中でいかに創造的な活動ができるかを丁寧に実践している様子が伺える。

awai art center

写真提供:awai art center     (右)加藤巧個展「〜|wave dash」

写真提供:awai art center (右)加藤巧個展「〜|wave dash」


東京に数多くのオルタナティブ・スペースがある一方で地方の動きも見逃せない。今年の4月29日にこけら落としを迎えたawai art centerは古くなった民家をセルフリノベーションし、展示スペースの他にカフェなどを併設したアートセンターだ。松本駅から徒歩5分ほど、天神深志神社の参道に面しながらも人通りは穏やかな場所にある。松本駅周辺には松本市美術館がある他、雑貨店が並ぶ観光スポットなどもあり、季節によっては多くの観光客でも賑わうことだろう。さまざまな物事の間(あわい)に表現を開いていくことをイメージして付けられたという名が示すように、松本という地でいかに表現の場をつくるのかこれからの活動に注目している。

アートが立ち上がる場
一様にオルタナティブ・スペースという呼称で括っても、それぞれはギャラリーを冠していたり、住居を伴っていたりと様々である。ここで紹介したスペースでもオルタナティブ・スペースを自称するところもあれば、そこにアイデンティティを持たない場合もある。呼称についてはそれぞれのスペースのコンセプトによって様々であり、例えば「Art Center Ongoing」は意識的にアートセンターと自称している。(6
本来オルタナティブとは何かに替わってという意味であり、オルタナティブ・スペースとは、美術館や画廊などの制度に参入するのではなく新たな表現の場を指すものだ。仮にその発端が制度への批判であったとしても、それらは今や対立項や代替物としてではなく、若手アーティストの作品発表の場の選択肢であり、時にはアートプロジェクトの会場でもあり、スペースによっては美術館に劣らない入場者数を誇るなど十分な文化資源として機能している。
こうした胎動を敏感に察知するアーティストやキュレーターもいる一方で、多くの美術館学芸員やギャラリスト、大学教員などは展示を見に来ない現状に、Chim↑Pomの卯城竜太は「オルタナティブな動向とメインストリームはコミュニケーションを取って、新しくリアルなものを世界に発信すべき」と述べている。(7
この気運を意識したのか、最近ではオルタナティブという語が積極的に用いられる例も見受けられる。ゲンロンカオス*ラウンジ 新芸術校は教育方針を「まったく新しい、オルタナティブ・アートへ」と掲げ、2016年5月に開催される「3331 Art Fair 2016 ‒Various Collectors Prizes-」ではオルタナティブ・スペース主催者たちによる推薦者枠が設けられている。(8 (9 またLOFT PROJECTによるエンターテイメント・メディアRooftop内で連載の始まった現代美術家の中島晴矢による「オルタナティブ展評」は独自の方法で作品を発表する若手作家の展覧会を取り上げることを目指した展評だ。(10
オルタナティブは泥臭い抵抗の旗手としてではなく、アートが立ち上がる場を自ら作り上げるごく自然な方法のひとつであるのではないだろうか。裏を返せば自らこうした場を創り出さねばいけない状況だったとも考えられる。

オルタナティブ・スペースが死語になる時
過去にシェアハウスが寄宿舎として建築基準法の風当たりを強く受けたように、既存の制度が時代に適応せず生活スタイルなどと乖離していく過程では、規制や価値観に先攻して自発的にその志向を具体化していく必要もあるだろう。労働形態においてもひとつの仕事に従事するのではなく複数の仕事を掛け持ちすることで多角的なスキルを身に付けたり、万が一解雇などによって収入源を失った際でもリスク回避にもなるといった意識の変化が起こっている。
こうした事象は冒頭に挙げた東日本大震災に記憶が新しいように、日本という不安定な地の上では西欧に倣った歴史を積み重ねること自体に大きな障害があることを示唆してはいないだろうか。そんな「悪い場所」の上では全ては仮設ということを含意に考えるべきだろう。(11 これは決してネガティブな態度ではなく、全てが流れさってしまうことがある土壌の上をも軽やかに乗りこなす身体感覚を養うことだ。それは関東大震災直後に生活を再建する足がかりとして機能したバラックを生み出す感覚に近いのかもしれない。
また最近では空き家対策を含めて人口が減少する時代に対しシュリンキング・シティ(縮小する都市)という考えもある。これまでの都市計画にあるようなゾーニングではなく、小さな街の中でもスポンジの孔のように不規則に空いてしまったスペースに個々人の意思によって充実した機能を重ねていくという可能性をオルタナティブ・スペースに照らし合わせてみるならば、ハードを含めた既存の資源を活かして営まれるものが多く、近代的な経済成長に捕われない持続可能性が高い活動であると期待している。(12 これまでの文化施設や大規模なアートプロジェクトでは介入する隙間のなかった場所に分け入るこうした活動は、今後の文化芸術の担い手として重要な萌芽となるだろう。
現在オルタナティブ・スペースと呼ばれるものの多くが住居、アトリエ、カフェ、まちづくり、若手アーティストの発掘・支援などいくつもの要素を駆動させて乗りこなされる軽快なものだ。既にアートという文化領域も近代の限定的な制度だけでは成り立たずに多様化してきた中で、オルタナティブ・スペースがその領域の末端にあったならば、内部への批判的なまなざしを保ちながらもいくつもの要素を組み合わせて更に前進するとき、代替物という語義を超えた可能性を宿すのだろう。
それはオルタナティブ・スペースが死語になる時こそが死線を抜け出る瞬間なのかもしれない。

(文:青木彬)


(1 国土交通白書2016(http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h26/hakusho/h27/index.html)
(2 松村嘉浩.なぜ今、私たちは未来をこれほど不安に感じるのか?.ダイヤモンド社
(3 加冶屋健司.「地域に展開する日本のアートプロジェクト—歴史的背景とグローバルな文脈」
『地域アート 美学 制度 日本』.堀之内出版.p104
(4 Lauren Rosati,Mary Anne Staniszewski.ALTERNATIVE HISTORIES
(5 http://artscape.jp/artword/index.php/オルタナティブ・スペース
(6 アートプロジェクト 芸術と協創する社会.熊倉純子(監修).水曜社.p92
(7 美術手帳.2015年5月号.美術出版
(8 http://school.genron.co.jp/gcls/
(9 http://artfair.3331.jp/2016/about/
(10 http://rooftop.cc/powerpush/cat4/151127190659.php
(11 日本・現代・美術.椹木野衣.新潮社
(12 都市をたたむ.饗庭伸.花伝社

青木彬(Akira Aoki)
1989年生まれ。東京都出身。首都大学東京インダストリアルアートコース卒業。在学中に「ひののんフィクション」「川俣正TokyoInProgress」などのアートプロジェクトの企画・運営に携わる。メインストリーム/オルタナティブを問わず、横断的な表現活動の支援を目指す。これまでの企画に「『未来へ号』で行く清里現代美術館バスツアー!」、「うえむら個展 ここは阿佐ヶ谷」などがある。現在はTAV GALLERYのキュレーターとしても活動中。
http://akiraoki.tumblr.com/

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現代アートが、千三百年の伝統と結ばれた。
公開空地プロジェクト2015 プロジェクトレポート

神田明神に奉納された「ハートフレーム」の基調色光:朱赤。 「♥」の赤でありながらも、神社建築の基本伝統色に馴染む色調である。

神田明神に奉納された「ハートフレーム」の基調色光:朱赤。
「♥」の赤でありながらも、神社建築の基本伝統色に馴染む色調である。


■ 現代アートが日本伝統の「習慣」、「場」と“engaged(エンゲイジド)”した日
2015年5月19日火曜日、大安。神田明神。
朝のうちぱらついていた小雨が止み、午後には、時折晴れ間ものぞく天気となった。今年の2月2日から3月14日の間、お茶の水駅前「お茶の水サンクレール」で行われた公開空地プロジェクトで誕生した作品“Heart Light Go-round(ハートライトゴーランド)”が、この日、化粧直しも整い、「ハートフレーム」となって境内に恒久設置され、「奉納式」を迎えた。今年で6回目となる同プロジェクトのエンドストーリーは、東京―神田、日本橋、秋葉原、大手町・丸の内など108の町々の総氏神様である神田明神(神田神社)への奉納、という、まさに、アートが、地域の歴史・伝統・営みと“engaged(エンゲイジド)”する「結び」となった。
神田明神というと、江戸東京に鎮座して1300年近くの歴史をもつ江戸総鎮守の神社である。毎年、初詣の時期には、約30万人もの参拝客で賑わい、都内でも有数の初詣スポットのひとつとして知られているほか、秋葉原に近い、という立地特性から、最近ではアニメの「聖地」化、という現象も起きている。余談ではあるが、奉納式当日、我々の前の奉納者は、「妖怪ウォッチ」の関係者で、「ジバニャン」と「コマさん」の着ぐるみたちが神妙な面持ち?で祝詞に頭を垂れる姿は、なんともユニークな光景であった。
さて、奉納式は、奉納者、協賛社参列のもと、社殿内にて、神職が打つ太鼓の音とともに始まった。祝言葉奏上、お祓い、祝詞奏上、福鈴の儀、玉串奉奠(たまぐしほうでん)、権宮司様ご挨拶、と厳かに続き、約30分間の式で無事に終了、続いて、「ハートフレーム」前でのお祓いの義が執り行われた。作品を前に、奉賛者、関係者一同参列し、神職によるお祓いの後、今回の移設・奉納で大変お世話になった権禰宜(ごんねぎ)様による清め払いが行われ、お清め紙がちらちらと舞う中、点灯式となった。残念ながら、周囲の明るさのせいで、ハートフレームの光はよく見えなかったが、ホワイトグレーに「お色直し」をした作品は、神田明神境内で、新たな時の“Go-round”へと、無事に出帆した。以下、奉納式での権宮司様ご挨拶の言葉からの引用である。
「その(制作・奉納に携わられたみな様の)真心とともに、この素晴らしい作品が、末永く多くの人から愛される作品となり、そして、多くの人々の祈りを、神様へ通じるその仲取り持ちとしての役割を、これから果たしていただくべく、ご活躍をいただきたいと思っております。」
今回の奉納の意義は、まさに、この言葉の中にあるのではないか、と、私は感じた。そして、新たな光が灯ったその瞬間は、アーティスト志喜屋徹氏が、西洋的な文脈の「バレンタインデー」と「♥」を、日本伝統の文脈にのっとった表現に重ねて誕生させた現代アートが、そのモチーフとなった「結ぶ」表現の「素」の姿に原点回帰し、地域社会と、末永く“engaged(エンゲイジド)”した瞬間でもあった。

左)社殿内で行われた奉納式の様子。神職から玉串を授かる奉賛代表者三名。手前より、工藤代表理事、志喜屋氏、新井。右)ハートフレーム前で行われたお祓いの義の様子。

左)社殿内で行われた奉納式の様子。神職から玉串を授かる奉賛代表者三名。手前より、工藤代表理事、志喜屋氏、新井。右)ハートフレーム前で行われたお祓いの義の様子。

奉納式翌日の「ハートフレーム」。既に、おみくじや絵馬が結ばれはじめている。

奉納式翌日の「ハートフレーム」。既に、おみくじや絵馬が結ばれはじめている。


「おみくじ結び」におみくじを結ぶ参拝客。 日本伝統の習慣。

「おみくじ結び」におみくじを結ぶ参拝客。
日本伝統の習慣。

■「奉納」への道筋 3つの「思い」のエピソード
奉納から早くも1ヶ月が過ぎ、紫陽花の咲く季節となった。「ハートフレーム」は、まるで以前からその場にあったかのように、自然に境内の風景に馴染んで、既に沢山のおみくじや絵馬が結ばれている。
何故、このように、初めから、最後に収まるべき「場」が用意されていたかのような「流れ」になったのか、今もって、とても不思議に感じるのだが、このような「流れ」と「結果」が生まれたバックグラウンドには、三つの柱となる「思い」のエピソードがあった、と、今振り返ってみて思えるのだ。その3つについて、ご紹介したい。

奉納式から約2週間後の様子。既に、おみくじでいっぱいである。奉賛者銘板の取り付けも完了。

奉納式から約2週間後の様子。既に、おみくじでいっぱいである。奉賛者銘板の取り付けも完了。

【思いを形にする。】
『参加者が、「思い思い」をメッセージに書いて、参加していく形にしました。みんな表現者なんですね。思いを形にする、表現することで、自分を理解することもできると思うし、人に伝わっていく。思いが形になる世界になると良いなと思いました。』(プロジェクト記録ムービー撮影時の、志喜屋徹氏へのインタヴュートークからの引用。以下、『』内テキストは、インタヴュートークより。)
 時を、2015年1月に遡る。
NPO法人アート&ソサイエティ研究センターの工藤安代代表理事は、今回のプロジェクトが、バレンタインデーからホワイトデー期間の販促催事にからめて行われる、という特性から、『「大切な人への想い」を表せるようなアートを仕掛けたい』、と、考えていた。そこで、相談を持ちかけたのが、2012年の公開空地プロジェクト「ニコニコ来来ドーム」で黄色いビニール傘を素材に、参加型作品を制作したアーティスト、志喜屋徹氏であった。志喜屋氏は、私たちの暮らしのごく身近にある、もともと消費され廃棄される運命のもとに生まれてきた(生産・製造された)モノたちに、普遍的なアートの命を注ぐ、という、言わば、「モノの価値概念」の位相転換を生み出す作風を得意としているアーティストで、大手広告代理店のアートディレクターという顔を持つ。彼が創案したプランは、
1)世界中で、国や文化を超えて親しまれている「愛(Love)」を表すシンボル「♥(ハート)」を、ビジュアルシンボルにする。
2)トランプの「♥」のカードを、願い事を書く「短冊」や「絵馬」に見立て、そこに、参加者(来街者)各々が「愛」を言葉にして書く。(愛のメッセージを集める)
3)言葉として、可視化された「愛」や「想い」を「結ぶ」「場」を広場空間につくる。
4)「光」を、メッセージ性のある感覚的なエレメントとして用いる。
5)「♥」のカードが抜かれたトランプによる造形作品を、“Heart Light Go-round(ハートライトゴーランド)”の内部と、通路空間にインスタレーションする。
という、5つのレイヤーで構成されたプランであった。日本伝統の習慣にのっとった「結ぶ」という行為によって、参加者自身が表現者となり、その表現の集積(時の経過と表現の集積性)によって作品が初めて完成する、というプランである。
かくして、工藤安代代表理事の思いに、志喜屋徹氏の思いが重なり、プロジェクトは「カタチ」を成し始めていた。その後、2月2日から3月14日の間、「公開空地プロジェクト2015」がどのように推移したか、については、本サイトで公開されているダイジェストムービーを、是非、ご参考いただきたい。

shikiya

メッセージ

ハートカード

【「思い」プラスちょっとの行動。】
 私は、今回のプロジェクトに、「五感演出プロデュース」という役どころで参加させていただいた。プロジェクトの制作ディレクションと、ハートフレームの製作、光・音の演出プロデュースである。今までに何度か、他の企画でプロジェクトを共にしている志喜屋徹氏から相談を受けたのが、今年の年明け早々。プロジェクトのオープン予定日まで、既に1ヶ月を切っていた!1月6日に初打ち合わせをし、その後1月31日、2月1日の設置とオープン後の調整に至る怒涛の日々は、今思うと懐かしくさえ感じられるが、そんなミラクルを実現させたのも、「思いの結集」と「行動」であったことは間違いない。ライティングプログラムを担当したLighting Roots Factory代表、松本大輔氏の言葉である。『「思い」プラスちょっとの行動が、物凄いものを作っていくんだな、ということを実感できる41日間でした。』

「記憶の中で、いつかふと目覚めるような感覚風景」をつくることを目指して、音とシンクロするように回り続けた光跡は、3月14日の夜、11時に消えた。いつか、誰かの記憶の中で、再び回りだすことを夢見て。そして、プロジェクトの第一章は、約1500ものメッセージカード(♥のトランプ)を集め、惜しまれながら終了した。サイトスペシフィックなアートインスタレーションに、参加者・来街者の「愛」と「想い」のメッセージと、光・音という「タイムフレーム」を乗せて、プロジェクトは、ハートフルな「時空間芸術」へと昇華した。

左)2月2日~2月14日、バレンタインデー期間の、赤い色光によるライティング。フレーム内部のオブジェの光は、心臓(Heart)の鼓動のように、ゆっくりと明滅する。ハート型フレームのライン状の光は、4つの「♥」のアウトラインにより構成され、全期間を通じて、「♥」が、1ライン点灯(ひとつの「♥」ラインが光る)、チェイス(ひとつの「♥」ラインが回転するように光る)、全点灯明滅(4つの「♥」ラインが全体で光り、ゆっくり明滅する)という発光パターンの組み合わせで、「シーン」が演出された。 右)2月15日~3月14日、ホワイトデー期間の、青と赤の色光によるライティング。ハート型フレームのライン状の光は、特殊な樹脂製導光棒に、LEDライトの光を当て、「面発光」の光のラインを作り出している。また、プロジェクト期間中、公開空地の作品周辺、および、「お茶の水サンクレール」の通路エリアには、作曲家、高木潤氏によるオリジナルの音楽が流れ、「光と音が響き合う環境」がつくられた。

左)2月2日~2月14日、バレンタインデー期間の、赤い色光によるライティング。フレーム内部のオブジェの光は、心臓(Heart)の鼓動のように、ゆっくりと明滅する。ハート型フレームのライン状の光は、4つの「♥」のアウトラインにより構成され、全期間を通じて、「♥」が、1ライン点灯(ひとつの「♥」ラインが光る)、チェイス(ひとつの「♥」ラインが回転するように光る)、全点灯明滅(4つの「♥」ラインが全体で光り、ゆっくり明滅する)という発光パターンの組み合わせで、「シーン」が演出された。
右)2月15日~3月14日、ホワイトデー期間の、青と赤の色光によるライティング。ハート型フレームのライン状の光は、特殊な樹脂製導光棒に、LEDライトの光を当て、「面発光」の光のラインを作り出している。また、プロジェクト期間中、公開空地の作品周辺、および、「お茶の水サンクレール」の通路エリアには、作曲家、高木潤氏によるオリジナルの音楽が流れ、「光と音が響き合う環境」がつくられた。

左) ハート型フレームに取り付けられた、音が鳴る仕掛け(「音具」)。幼児用玩具「ガラガラ」を素材に用い、風が吹いたり、フレームが揺れると、どこか懐かしい印象の音が聞こえてくる。右) 通路空間に展示された作品「光を求めてⅡ」の前で、色光による影の出具合を確認する志喜屋氏。

左) ハート型フレームに取り付けられた、音が鳴る仕掛け(「音具」)。幼児用玩具「ガラガラ」を素材に用い、風が吹いたり、フレームが揺れると、どこか懐かしい印象の音が聞こえてくる。右) 通路空間に展示された作品「光を求めてⅡ」の前で、色光による影の出具合を確認する志喜屋氏。

【「思い」を重ね、未来へ、結ぶ。】
『この(公開空地)プロジェクトの大きな特色というのは、その場所で一度終了しても、また違う場所に移って、形を少し変えて、生き続ける、ということだと思います。…(中略)…クリエーターの方たちの熱い思いが重なり、このプロジェクトは、最初のシナリオ通りではなく、良い意味で、育っていったのではないか、…』(工藤代表理事)
 テンポラリーな公開空地プロジェクトの中で生まれた「思い」をパーマネントに「生き続けさせたい!」そんな純粋な思いと願いが重なり、“Heart Light Go-round(ハートライトゴーランド)”の「永住の地」探しが始まった。その第一目標は、神田明神。工藤代表理事は、お茶の水茗溪商店街会長をはじめ、公開空地プロジェクトでのご縁をたどり、交渉に奔走した。「お茶の水サンクレール」では、3月14日の終了から5月18日早朝の移設当日まで、約2ヶ月間、地下駐車場で作品を保管していただいた。
シナリオにはなかった「奉納」というエンドストーリーは、制作者の思いと、プロジェクトを支えてくださった方々の思いが重なり、強い願いとなって、神田明神に通じた。まさに「結ばれた」結果なのだ。どこか、恋愛、そして結婚へのプロセスに似ている、と思うのは、私だけだろうか?「奉納式」は、今回のプロジェクトで生まれた現代アート作品と地域社会との「結婚式」だったのではないか。今、振り返ってみて、そんな風に感じるのである。

プロジェクト終了後、回収され、NPO法人アート&ソサイエティ研究センターにて一時保管されたトランプのメッセージカード。約1500枚ものメッセージが集まった。

プロジェクト終了後、回収され、NPO法人アート&ソサイエティ研究センターにて一時保管されたトランプのメッセージカード。約1500枚ものメッセージが集まった。

聖橋から神田方面を望む。目には見えない、耳には聞こえない多くの「愛」と「思い」のメッセージが、どれほど眠っているのだろうか。

聖橋から神田方面を望む。目には見えない、耳には聞こえない多くの「愛」と「思い」のメッセージが、どれほど眠っているのだろうか。

神田明神社殿前の提灯。伝統の灯である。

神田明神社殿前の提灯。伝統の灯である。


6月4日木曜日、先負。神田明神。プロジェクト記録ムービー撮影最終日、夜8時。
「ハートフレーム」の光は、社殿の灯や「献灯」のぼんぼりの灯を背景に、奉納用に新たにプログラムされた光(神職・巫女の装束の色をモチーフにした色光構成)をまとって、静かに佇んでいた。志喜屋氏、松本氏とおみくじを引いた。何と、志喜屋氏に続いて私も、引いたおみくじを「ハートフレーム」に結ぼうとしたら、おみくじが切れたのだ!奉納後初、しかも奉納当事者のおみくじが切れる、という縁起悪い事態に動揺したが、気を取り直してもう一度引き直し、2度目は首尾よく結ぶことができた。ちなみに、おみくじは、志喜屋氏の一度目が「末吉」、二度目が「大吉」、私の一度目が「末吉」、二度目が「小吉」で、どちらも二度目に「吉度」が上がる、という結果になった。松本氏も「末吉」だったことからすると、先んずることなく、怠らず、思いを重ねよ、ということか。

新たに灯った「ハートフレーム」の光。神田明神1300年の歴史・伝統と現代とのマリアージュである。

新たに灯った「ハートフレーム」の光。神田明神1300年の歴史・伝統と現代とのマリアージュである。


■プロジェクトを振り返って
『これだけ街ゆく人たちの心の中に、様々な「思い」、しかも、大切に思う人への「思い」や「愛」という感情があるんだな、ということを実感しました。』(工藤代表理事)

私も同感である。今まで気づかなかった、ごく「身近な愛」と、「誰かに伝えたい思い」の存在に、気づかせてくれた。そして、「ハートフレーム」は、神田明神の境内で、そのような「愛」や「思い」を「結ぶ」フレームとして、末永く親しまれる存在になった。

神田明神「ハートフレーム」の基調色光:白。(朱赤と対を成す) 神職・巫女装束の基本色。(ベーシックであり、かつ、高位の色)

神田明神「ハートフレーム」の基調色光:白。(朱赤と対を成す)
神職・巫女装束の基本色。(ベーシックであり、かつ、高位の色)


このレポートを終えるにあたって、プロジェクトの企画段階から奉納に至る全てのプロセスにおいて、「アーティスト」、あるいは、「クリエーター」という立場で関わった私たちの「思い」を、いつも真摯に受け止めてくださり、そして、そこにご自身の「思い」を重ねて、目指す目標へとナビゲートしてくださったNPO法人アート&ソサイエティ研究センター工藤安代代表理事に、この場をお借りして、心から感謝の意を表したい。

(文:新井敦夫)

新井敦夫(Atsuo Arai)
五感演出プロデューサー。1960年、東京生まれ。音環境デザインのプランナー・プロデューサーを経て、音、光、香り等、五感の相乗効果を活かした環境演出・デザインや、東関東大震災復興応援のためのソーシャルアートの企画・プロデュース、自然エネルギーとアートでつくるイルミネーションの企画制作、等に取り組んでいる。東京メトロ南北線「発車サイン音」のデザイン・ディレクション、高松シンボルタワー「時報」、および、「風のサヌカイトフォン」(讃岐地方に産出する『サヌカイト』という石を用いた音と造形のパブリックアート)の企画・プロデュース等、実績多数。
「シネステティック・デザイン(五感にひびき『感覚の味わい』を生み出すアート&デザイン)」をテーマにした研究・創造活動組織「SORA Synesthetic Design Studio(SORA SDS)」代表。
https://ja-jp.facebook.com/SORA.SDS

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P+ARCHIVE レクチャー&ワークショップ2011「実践 アート・アーカイビング」参加者募集

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「実践:アート・アーカイビング」は、アート・アーカイブへの理解を深めるためのレクチャーや、文書管理の基礎的なスキルを学ぶ連続ワークショップを通じて、アート・アーカイビングにかかわる実践的な人材育成を目指します。
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