本稿は、ハノイ在住のウット・クエンによるテキスト、「My Own Words: Hanoi’s response to COVID-19」を邦訳したものである。友人であるクエンから文章を書いたと知らせをもらったのは、6月下旬のことだった。まだ世に出ていない原稿を光栄にも受け取ったのだが、ベトナム人以外の反応を知りたいという思惑も彼女の中にあったのかもしれない。
現代アートスペースのスタッフとして、またアート分野のライターとして培われた視点やネットワークをもって書かれた原稿からは、未曾有の状況を書き留めることに対する彼女の熱量を感じた。ハノイの芸術文化スペース、団体によるCOVID-19への対応を文章の核としながら、それらが抱える恒常的な課題についても述べられている。局所的な事象が描かれているが、他の場所でも起きていることかもしれないとも思った。多くの読者が待ち望んでいるはず、とクエンに向けて読後のメッセージを返信した。推敲を経たクエンの最終稿が書き上げられてからも、ハノイの様子は日々変化している。99日間の平穏ののち、ベトナムでは7月下旬より再び新型コロナウイルスの感染者が増え始め、感染拡大の第2波に見舞われた。現在ハノイの状況は落ち着きつつあるが、公共の場でのイベントに対する一定の制限は解かれぬまま、スペースや団体は活動を続けている。
本稿内でCOVID-19の一過性に言及したハー・ダオの言葉は力強く響く一方で、クエンは持続可能な活動の難しさを記す。両者とも文化芸術活動を取り巻く環境に対する危機感は共通している。クエンが言うような文化芸術に関する体系的な働きかけの実現に向けては、個人や団体間の水平的な連帯が重要度を増すだろう。COVID-19がもたらした繋がりの変化、繋がるものや方法の変化は、明らかに個々の活動に影響を与えていることが本稿からも読み取れるが、より大きなうねりに波及するだろうか。これまでも常に戦術を駆使してきたに違いないハノイの実践者たちから、新しい生活様式の下で生み出されるものを、今後も辿っていきたい。
拙訳の掲載を快諾してくださったアート&ソサイエティ研究センターの皆様に心より感謝申し上げます。
(金子望美)
ベトナムはCOVID-19の抑え込みに成功したといってもさしつかえないだろうが、世界的なパンデミックの影響はこの国の生活のあらゆる面に及び、軽視できない。芸術文化産業も例外ではない。本稿はハノイの芸術文化関連のスペースへのインタビューをまとめたものであり、彼らの懸念や、変動する世界で持続的な将来を構築するために彼らがとった短期的・長期的対応を明らかにすることを狙いとした。
「新しい日常」
ベトナムで全国的なロックダウン1)措置が解除されたのは2020年の4月下旬だった。5月末には公共の場での芸術文化活動が慎重に再開され、公共の場でのイベント開催は徐々に以前の頻度に戻りつつある。実のところ、芸術文化関連の団体の多くは、オンライン上や現実空間でのイベントに対する関心の高まり、参加者の増加を感じていた。例えば実験音楽のような、挑戦的な芸術形式(art forms)もその一つである。実験音楽とアートのハブであるドムドム(DomDom)によるライブパフォーマンス「レッド・ダスト・ホライズンズ・コンサート(Red Dust Horizons Concert)」には、300人が来場した。
参加者の急増は、参加可能な公共の場でのイベントが少ないためと考えられる。これは好ましい兆候であるとして、ローカルのアーティストたちは歓迎しているものの、一方では、一過性のものかもしれないと慎重に見ている。
孤立する芸術文化コミュニティ
先日、シンガポールの『ストレーツ・タイムズ(Straits Times)』紙は、生活に必要不可欠なサービス(essential services)に関する調査記事を発表し、必要不可欠ではない職業(non-essential jobs)ランキングの1位に「アーティスト」を挙げた。これは他国の記事にもかかわらず、ベトナムのアートコミュニティの人々の間に怒りや皮肉といった反応を次々と引き起こした。しかし、この調査が明らかにしたのは、COVID-19の流行に対処するにあたって芸術文化コミュニティがいかに孤立しているか?ということだ。インディペンデントな現代アートスペースであるヘリテージ・スペース(Heritage Space)のディレクター、グエン・アイン・トゥアン(Nguyễn Anh Tuấn)は言う。「芸術は社会の上部構造の総体に属しており、それ独自のインフラや経済的・精神的価値体系を備えているが、国や人々から適切に注意を払われるのはいつも最後になる」。さらに、「我々は常に最低限のリソースしか与えられず、社会的な危機が訪れる時はいつでも、それどころか平常時においても自力で何とかしなければならない」と付け加える。
このパンデミックによって、アートコミュニティとベトナムの政策立案者との折り合いの悪さは浮き彫りになるばかりだ。文化スポーツ観光省は、インディペンデントな芸術文化コミュニティを支援するための緊急対応策をいまだに講じていない。政府による620億ベトナムドン(およそ260万ドル)もの金融支援パッケージ(Financial Assistance Package)は、COVID-19の影響を受けた人々に向けて打ち出されており、清掃員から食料雑貨店の販売員、個人事業主の運転手まで、幅広い職種をその対象としている。しかし、ザ・ベトナム・ナショナル・インスティテュート・オブ・カルチャー・アンド・アーツ・スタディーズ(the Vietnam National Institute of Culture and Arts Studies、以下VICAS)のリサーチャーであり、ヴィカス・アート・スタジオ(VICAS Art Studio)のマネージャーであるグエン・ティ・トゥ・ハー(Nguyễn Thị Thu Hà)は、インディペンデントなアーティストはこの対象外であることを指摘している。
共通の状況に対する様々な反応
国から支援を受けている組織は、経済的な安定を得ている一方で、危機に素早く対応する力を犠牲にしている。2017年に設立されたヴィカス・アート・スタジオはベトナムで唯一、政府が支援している現代アートのスペースである。外から見る分には、彼らは恵まれた立場にいるように思える。インフラへの支援があり、従業員の給与は保証され、活動やプロジェクトの予算は確保されている。3ヶ月の社会隔離期間中でさえ、VICASのスタッフはリサーチャーとして国の予算から給与が支払われていた。将来のプロジェクトはどれも中止を免れており、既存のプログラムは再開されるはずだ。パンデミックが終わればVICASは運営を再開し、鑑賞者やコレクター、コミュニティとの結びつきは以前と変わらぬままだろう、とVICASの協働者やアーティストの皆が確信していた。
しかしグエン・ハー博士2)は、国からの支援を得ているがために、危機に対応する能力を構築することに対してメンバーがかなり消極的になっていると言う。スタッフ全員は研究所のリサーチャーとしての職務を優先させなければならない一方で、ヴィカス・アート・スタジオの運営を無償のボランティア活動として行う。したがって、アートスペースのためのチームを安定して維持することは難しく、メンバーは過重労働になることが多い。パンデミックの間、彼らは組織を変えるための解決策を積極的に提案することはできなかった。
ベトナム最大の企業の一つであるビングループ(Vingroup)傘下のビンコム・センター・フォー・コンテンポラリー・アート(Vincom Center for Contemporary Art、VCCA)もまた、先行き不透明な状況に直面している。彼らの活動は企業の決定に左右されるためである。もし経済状況が悪化すれば、非営利事業のアートセンターは真っ先に閉鎖される可能性がある。
資金提供の削減と移動の制限に見舞われ、文化芸術関連のスペースや団体の大半は、プログラムの延期や中止を迫られている。しかしながら、パンデミックの有無にかかわらず、芸術文化のためのインフラが不十分であるという状況の中で自分たちが活動していることを、文化芸術の実践者は理解している。写真家であり批評家、またマッカ・フォトグラフィー・スペース(Matca Photography Space)のマネージャーでもある、ハー・ダオ(Hà Đào)は言う。「おそらく、インディペンデントなアートスペースは激変する生活に慣れすぎている。アンダーグラウンドで活動していて、生き残るための方法を常に探す必要があるので。そういった意味では、COVID-19はすぐに過ぎ去る出来事でしかない」。アートギャラリー兼カフェのマンジ(Manzi)はいち早く活動を取り戻した場所の一つで、展示のオープニング、イベント、トークイベントの予定が詰まっている。経済的に自立し続けること、そして地元当局とうまくやる方法を知ることは、スペースの存続に初めから影響を及ぼす課題である。
サバイバルのための改革
ハノイの芸術文化関連のスペースの多くは、ロックダウンの期間を運営の見直しや能力開発のための機会とみなした。建築とアートのためのスペースであるアゴハブ(AGOHub)は、パフォーマンスの向上とリソースの十分な活用のために、仕事を特徴的なカテゴリーに振り分ける必要があることに気がついた。現在アゴハブは、物理的な施設を管理するチーム、専門分野のイベントを企画するチームという2つの独立したチームを抱えている。ザ・センター・フォー・アシスタンス・アンド・ディベロップメント・オブ・ムービー・タレンツ(The Centre for Assistance and Development of Movie Talents、以下TPD3) )のディレクターであるグエン・ホアン・フォン(Nguyễn Hoàng Phương)は、人的・金銭的リソースが限られている組織にとって、共同体の形成(community building)は最も重要であると述べている。ロックダウン期間中、TPDは組織内のコミュニケーションを深めることや、彼らのサポーターに無料で授業を提供することに力を尽くした。
デジタル化は、COVID-19への対応にみられる世界的な傾向である。パフォーミングアーツの団体は、ライブイベントに代わるものとしてのデジタルの有効性に当初は疑いをもっていたものの、現在はより多くの観客の獲得や、より活発で国際的なプログラムを可能にするという利点を見出している。例年のパフォーミング・アーツ・スプリング・フェスティバル(Performing Arts Spring festival、PAS)に代わり、そのオンライン版を2020年6月に2日間にわたってZoomで開催したことで、ATH4)はいつもより多くの専門家をゲストに招くことができた。その中には、英国とフランスから招待した影響力のある演劇とダンスのアーティスト2名が含まれ、彼らによるワークショップが行われた。この仕組みにより、生徒によるパフォーマンスや舞台新作についての録画配信や、本フェスティバルのために特別に行われたコンサートや演劇2本のライブストリーミングも可能になった。
数々の団体は、協力する機会や潜在的なパートナーも新たに獲得した。ヘリテージ・スペースはゲーテ・インスティトゥート・ハノイ(Goethe-Institut Hanoi)とのコラボレーションにより、映画『ザ・スペース・イン・ビトウィーン:マリーナ・アブラモヴィッチ・アンド・ブラジル(The Space in Between: Marina Abramović and Brazil)』を上映した。観客とオンラインで共有するこの試みに、思いがけずアブラモヴィッチが参加した。ヘリテージ・スペースのグエン・アイン・トゥアンは言う。「アブラモヴィッチと連絡を取ったのはイベントのほぼ1週間前だったが、こちらの出演依頼に応じてもらえるとはあまり思っていなかった。いつもなら彼女のスケジュールは1年先まで埋まっているはずなので」。レジデンススペースのバー・バウ・アーティスト・イン・レジデンス(ba-bau AIR)は、外国人アーティストへ宿泊施設を提供する方針から、ローカルのアーティストや団体を招いてのイベントや短期のワークショップに施設を利用する方針へと移行した。旅行が制限されているゆえにコラボレーションの機会を国内で探さざるを得ないことが、結果的に地元の芸術文化の実践者、スペースや団体間のつながりを強めている。
パンデミックに対処するためにそれぞれのスペースが取った即時の行動もまた、長期的に運用されるモデルになる可能性を秘めている。例えば、ア・スペース(Á Space)はオンラインプラットフォームであるバーチャル・ア・スペース(Virtual Á Space)を展開し、現実空間のスペースから独立して運営している。アーティストでア・スペースを設立したトゥアン・マミ(Tuan Mami)は、「バーチャル・ア・スペースは若手のアーティストやアートの実践者がプロジェクトを発展させたり、展示を企画したりする可能性や、物理的な空間に関しては通常よりエスタブリッシュな実践者のための場所を使う機会を提供できる」。バーチャル・ア・スペースでの初めての展示となる「アイ、アザー・エグジスタンスィズ(I, Other Existences)」は2019年に結成されたマルチメディア・アートコレクティブであるモー・ホイ・モーモ?(Mơ Hỏi Mở – MO?)がキュレーターとなる予定である。
持続可能な将来はあるか?
COVID-19が発生して初めて、ベトナムの実践者から持続可能な発展の問題が提起された。アゴハブの創設者兼マネージャーであるグエン・トゥアン・アイン(Nguyễn Tuấn Anh)は、「持続可能であるためには、アートや非営利の活動と実利的で商業的な活動とのバランスを取ることが必要だ」と述べる。しかし、これは他の多くのスペース、特に実験的なアート様式を扱うドムドム、ア・スペース、ヘリテージ・スペースなどにとっては、難しい問題である。さらに、今回インタビューしたマネージャーやオーナーの中で、感染拡大の第2波や再度の長期休業を自身の組織が乗り越えられると確信している者は一人もいなかった。
サバイバルと長期的な発展に不可欠な教訓(lessons learnt)を以下に記す。
・危機に対応する力を高める
・市民との結びつきを強める
・内部のリソースをより有効に活用する
・活動やプロジェクトを局地化(localise)、地域化(regionalise)する
・海外の団体や機関からの資金提供への依存度を減らす
・非営利活動と収益性のある活動のバランスを探る
これらのアクションに加えて、国民への教育やコミュニケーションのプログラムを通じて、文化芸術産業に対する理解を体系的なレベルで向上させる必要がある。
筆者について
ウット・クエン(Út Quyên)は芸術分野のライター、芸術文化関連のコーディネーター、オーガナイザー。インディペンデントのライターおよび芸術文化を扱うウェブサイトであるハノイ・グレープバイン(Hanoi Grapevine)の寄稿ライターとして、芸術活動に関する論評を執筆する。また、ハノイのインディペンデントなアートスペース、ヘリテージ・スペース(Heritage Space)でのクリエイティブイベントやアートプログラム・プロジェクトのほか、ハノイ市内にある他のアートセンターと協働する分野横断的なクリエイティブプロジェクトにて、企画・運営に従事する。現在はベトナムのハノイに在住し活動している。
本稿記載の見解や意見は筆者個人のものであり、必ずしもArt & Marketの見解や意見を反映するものではありません。本稿は長さ、明確さのため編集されています。
(訳者/金子望美)
訳者による注釈
1) ベトナムにおいて、全国的な社会隔離措置は4月1日より開始された。政府により、買い出しや救急、必要不可欠な商品・サービス関連勤務以外の外出自粛要請が発出され、また公共の場所において3人以上の集合が禁止された。これに先立ち、グエン・スアン・フック(Nguyễn Xuân Phúc)首相やマイ・ティエン・ズン(Mai Tiến Dũng)政府官房長官は、本措置はあくまで要請であり都市封鎖(ロックダウン)とは異なる旨を強調した。しかし訳者の所感では、ベトナム国内における制限の強さを他国の都市封鎖の状況と比較した場合、隔離措置期間中のバス・鉄道等の公共交通手段およびタクシー・grab等の輸送サービス停止や、ベトナム当局が街中を巡回して監視する様子(報道によれば、複数地域において政府の要請を遵守しない者への罰金例が多数挙げられている)等より、ベトナムもそれに準ずるように感じた。
本文では、筆者が原文内で「lockdown」を使用する限り、「ロックダウン」と訳出している。
2) 既述のグエン・ティ・トゥ・ハー(Nguyễn Thị Thu Hà)博士を指している。
3) ベトナム語の団体名「チュン・タム・ホー・チョ・ファット・ティエン・タイ・ナン・ディエン・アイン(Trung tâm hỗ trợ Phát triển tài năng Điện ảnh)」の略称。
4) 当該団体設立時の名称であるアトリエ・テアトル・ド・ハノイ(Atelier Théâtre de Hanoi)の略称が転じて、現在はATHが団体の正式名称となっている。団体設立当初は活動の主眼を演劇に置いていたが、現在は音楽・ダンス、アートやクラフトにまで活動領域を広げている。それに伴い当初の名称であるアトリエ・テアトル・ド・ハノイの使用をやめて、代わりにアトリエ・テアトル・エ・アーツ(Atelier Théâtre et Arts、ドラマ・アンド・アーツ・スペースの意)という説明が用いられるようになった。
金子望美 (Nozomi Kaneko)
都市、文化、資本とその関係性を関心の軸に据えながら、文化芸術分野の翻訳やリサーチに従事する。パフォーマンスアートのデジタルアーカイブ、Independent Performance Artists’ Moving Images Archive (IPAMIA)のメンバー。ロンドン大学ゴールドスミスカレッジ、Culture Industry(MA)修了。現在ベトナム・ハノイに在住。