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P+ARCHIVE

2010.09.03

P+ARCHIVE第ニ回レクチャー「アーカイヴ的思考(Archival mind)について」報告

8月19日、慶応義塾大学アート・センターの上崎千氏を講師として、「アーカイヴ的思考」についてお話し頂いた。

いくつかの示唆的なプロジェクト―例えば、クレス・オルデンバーグの”Ray Guns”(=本物の光線銃からガラクタまで含めて「光線銃のように見えるもの」を収集し、それをカタログ化・一覧化した作品)、あるいはAvalanche誌上におけるブルース・ナウマンの”Wall/Floor Positions”(=「ビデオ・アートとは作品そのものか、それとも作品の記録か」という問題意識の下に、ビデオ・アートを誌面上で再構築した仕事)―を手掛かりとして、アーカイヴのフィクション性、そして合わせ鏡のように増幅していく記録行為の迷宮性が提示された。

一方で、アーキヴィストが直面することになる実際のアーカイヴは、ある意味で、不揃いで膨大な廃棄物の山と言うべき存在であり、虚構性に満ちた分類の問題に常に悩まされることになる。私たちはボルヘスの「ジョン・ウィルキンズの分析言語」における、あのエキセントリックな分類を一笑に付すことはできない。なぜならボルヘスが言うように、私たちは世界について完全に知り得ない以上、どんな分類も必ず恣意的で矛盾と破綻を抱え込むものだからである。

それでもなお、アーカイヴの虚構性と恣意性を了解し引き受けた上で、アーカイヴを絶え間なく再編集/モンタージュしていくという志向、そのために一定のインタレストとモチベーションを維持することのできる精神を、「アーカイヴ的思考」と呼びうるのではないだろうか。

今回のレクチャーを聞いて思い出したのは、F.カフカの「町の紋章」と題された、バベルの塔建設をめぐる短編。
ある町では何百年にも渡る長大で綿密な計画によって、天まで届く塔の建造を目指している。しかしその計画はあまりに慎重すぎたために、「将来建築技術が進歩すれば、今よりも遥かに頑丈な建物が効率的にできるのでは?」「もし将来の世代が以前の世代の仕事が気に食わず、取り壊して作り直してしまったら?」という疑念と意欲喪失をもたらした。結局建設計画は延期され続け、今や塔が建つ見込みはどこにもない…という寓話。

この古代バビロニア人たちの覚えた不安と無気力はまさに、アーカイヴ(とりわけその分類作業)の危うい虚構性に気付いた者の不安に重なるものであろう。アーキヴストがある資料群に対して精緻に組み立てた編成は、将来の「新資料の出現」によってあっけなく再編成を迫られるかもしれない。

また、自らを記録者であると信じていた「犬」(S.ベケット『ゴドーを待ちながら』)が、やがて「それを見ていたほかの犬」によって入れ子状に記録されるように、出来事の記録者としてのある種の特権意識と全能感は、その記録行為自体が別な主体によって記録され、やがて相対化されるであろうと気付いた瞬間にあえなくも崩れ去る。それならばいっそ、最初から「ほかの犬」が記録してくれれば、という思いが頭をよぎる。

実は、この「町の紋章」式の懐疑と無気力は、「アーカイヴ的思考」ときわめて隣接した位置に存在しているのかもしれない。そのきわどい境界において、何も考えずに塔を建てる愚か者でもなく、将来覆されるかもしれない塔を建てることの無意味さに気づいてしまった不幸者でもなく、絶え間なく覆されることを引き受けた上で塔の建設に携わるという、「アーカイヴ的思考」へといかに身を傾けていくか。そんなことを考えされられるレクチャーだった。

(P+ARCHIVEゼミ受講生 柴田葵)

(写真:廣瀬遥果)

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