全国のアート・プロジェクト実施団体に対して、資料の保存状況や、アート・プロジェクトのアーカイブに対する考えを伺うインタビューシリーズ。
一般社団法人MMIX Lab代表/アーティストの村上タカシさんは、3.11の震災を後世に伝えるべく津波の被害にあった公共物をのこしていく「3.11 メモリアルプロジェクト」などの活動を続けています。また、村上さんは日本でアートプロジェクトが始まった初期の頃である90年代から活動を続けてきました。プロジェクトベースの作家活動を長く続けてきたなかで、記録やアーカイブがどのような意味を持っていくのか、そのお考えを伺いました。
一般社団法人MMIX Lab(ミミックスラボ)[文中では「ミミックス」と表記します]
MMIXは非営利の芸術文化活動法人で国内外のアーティスト、クリエイター、芸術文化関係者やアートNPOをはじめ福祉やまちづくりNPO等と連携し、様々なアートプロジェクトやワークショップ等を行っています。
一般社団法人アート・インクルージョン
アート・インクルージョンは障がいのあるなし、年齢、性別、国籍、アートの基礎知識やスキル など関係なく誰もが自由に参加できるバリアフリーのアートプロジェクトです。様々なメディアを 融合させ地域に根ざし継続していくことを目指しています。
(P+ARCHIVE、以下斜体)まずは『3.11 メモリアルプロジェクト』についてお聞かせください。
村上タカシ氏(以下、村上) 『メモリアルプロジェクト』は、3.11の震災後、2011年4月ごろに思いつき動き始めました。まず、津波でものすごい被害を受けてぐちゃぐちゃになってしまっている状況をGPS機能の付いているカメラで撮っていきました。写真を撮ってから、瓦礫の現物はそのまま洗わないで保管していき、とにかく車で運べるものをどんどん回収していきました。集めた瓦礫を整理はしていきたいのですが、まだほとんどできていな状況です。
保管する場所も非常に困っていて、今やっと、「ミミックス」の倉庫を建てる予定の土地にブルーシートをかぶせて置いてあります。どこで回収したかはGPSで把握できていて、デジタル上ではマッピングできるようにはなっているのですが、そこまできちんと照合できるようにはまだできていません。一番苦手なとこですね、これからやっていかなきゃいけません。
『メモリアルプロジェト』ではスタッフは決まっているのですか?
村上 回収するのは、僕が基本的に1人でやっていて、大きいものがあったときには大学の大学院生らと一緒に運んだりしていますね。
記録をとる担当がいらっしゃるのでしょうか?
村上 今のところまだいません。『メモリアルプロジェト』以外のプロジェクトで作った作品では、ストックヤード的に置く場所があって、いつ・どこで展示をしたとか、どういう所で発表したかとか、どういう素材を使ったとか、そういう記録はあります。
プロジェクトのプロセスの記録などの整理はどうしていますか?
村上 プロセスの記録は、パソコン上で作ったものとかはデータで残っていますし、アンケートなどを取った記録とかはありますね。あとプロのカメラマンを入れて写真を残していて、動画も簡単に編集して広報担当スタッフがウェブでアップするとか、チームプレーで整理しています。
いろいろな人が関わっていらっしゃいますが、データや資料の共有やアクセス権の設定などはできていますか?
村上 全員がデータにアクセスできるわけではありません。例えば、写真をプロのカメラマンが撮ったものをDVDでもらって、マスター版として保存します。それを僕と広報担当のメンバーは使えますが、そのプロジェクトに関わる全員がアクセスできるわけではない。ウェブにアップしたデータを小さくした映像とかは共有できますが、マスター版は一部の人に限っています。
それでは、通常何名ぐらいで一つのプロジェクトを運営していますか?
村上 それぞれプロジェクトによりメンバーがばらばらで、プロジェクトユニットみたいになるのですが、5人ぐらいでやるものもあれば、20人ぐらいのときもありますね。「ミミックス」がベースになって、他のNPOと組んだり、町の人と組んだり、実行委員会形式でやるときにはもっと人数が増えたりします。基本、僕はプランニングとかディレクションを担当しますが、動く人はいろいろですね。
そうすると資料がいろいろな所から発生しますし、その資料も村上さんが1人で管理するのは難しいと思います。資料を管理する場所は決まっていますか?
村上 事務所に棚があって、そこで資料がファイリングされているものもあります。例えば「アート・インクルージョン」は、もともとプロジェクトで始めたのですが、毎回実行委員会形式でやるよりも法人化することにして今はやっています。
「ミミックス・ラボ」という一般社団法人は、アートの普及とか、アートプロジェクトをベースにやっています。「アート・インクルージョン」というのは福祉系の団体と一緒に作った法人なので、日頃は障がいのある方の就労支援として福祉作業所を併設していて、ファクトリーという作業所があるんです。「ミミックス」は、僕ともう一人マネジャーと、広報の3〜4人でほそぼそとやっています。「アート・インクルージョン」のほうが大きくて10人ぐらい居ます。
スタッフ間に共通した資料の作り方とか、内規ルールみたいなものはあるのですか。
村上 独自にフォーマット化しているスケジュール表とか、必要な物品表とか、担当一覧とか、そういうのはあります。担当一覧は、いつ・誰が・何に動くかとか、ワークショップを誰が担当するとか、いわゆるシフト表です。プロジェクトを実施しているときは担当者が変わったり、動きが早いのでそういう資料を作っています。
あと、最初の段階では、プロジェクトを企画して、それを助成申請する担当も居るので、その申請書などもあります。
助成申請を担当される方がいるのですね。
村上 ええ、僕も作りますが、「ミミックス」のマネジャーに助成金申請の書類を作る人がいます。「アート・インクルージョン」と「ミミックス・ラボ」というのは、仙台の同じ事務所をシェアしているので、役割分担はいろいろやっていますね。会計士さんももちろん居ますよ。
企画の段階でプロジェクトを考えだすのは、村上さんですか?
村上 「ミミックス」に関しては、基本、僕ですね。
最初の企画資料というのはプロジェクトを振り返るときに大切ですが、そのような村上さんが考えた、初期段階での記録はまとめていますか?
村上 そもそも僕がプロジェクトを始めたきっかけが、20年ぐらい前の1994年に『イズミワク・プロジェクト(IZUMIWAKU Project)』という学校美術館構想の企画書の作品をギャラリーに展示したところから始まっていて、そのときに企画書を初めて書いたんです。紙切れ1枚のA4サイズのものでしたが、興味を持った人たちが「本当にやるのか」とか「やるんだったら参加したい」とか「手伝いたい」と集まっていき、実行委員会みたいなものができて具現化していったという経緯がありました。企画書一枚でも形になっていくということがその時よく分かりました。
プロジェクトはやりっ放しではなくて記録も残そうということで、記録のビデオをVHSテープで60分ほどに編集して、それも市販していきました。ビデオは学校教材につながるようなものにして販売していくことで、学校とか図書館、博物館など最終的にはプロジェクトの経費を賄うぐらい売れたと思います。
それはすごいですね。そのような記録を残すということは村上さんご自身で始めたのですか?
村上 いや、宮前正樹っていうアーティストが進言してくれました。宮前さんといろいろ最初の頃からプロジェクトをやっていたのですが、「記録をきちんと残してやっていかなきゃ駄目」と言っていましたね。そういうとこから、アーカイブというか、写真と映像と、テキストベースのものと、学校教材にも使えるようなものにしたんですよ。
通常のギャラリーとか美術館だけじゃなくて、要は自分たちで場を作って、あとはメディアを作って発信すれば、美術館と同じぐらいの発信力があるというのが分かったので、記録を残すことは重要だなと、非常に実感しました。
アーティストでそういう実感を持てる方は、多くはいないと思います。作品を作るまでで燃焼してしまい、記録をどう活用していくかという発想はなかなかなかったのかもしれません。
村上 そうですね。あの当時はほとんど居なかったですよね。恐らく、作品の定義というか、その作家が何をもって作品と考えているかにもよりますが、平面とか立体作品は、もうそれだけでも完結しているとは思います。
今までプロジェクトベースのものを続けてきて、僕はそこでの行為を含め一つの作品として考えています。企画書の段階からいろいろ交渉したり、実際に準備して実施した事をまとめていき、その後の報告会も含めて一つの活動として一つの作品なんです。そういう意味では記録を残すことをやってはいるんですね。アーティストと組むこともあるし、アートは全然やったことがない人でもパソコンができるとか、通訳ができるとか…、「何ができそうですか?」という感じで入ってもらいながらチームを作っています。
でも、そういうプロジェクトのやり方って、大学でやっていたのがもともと版画なのでそこからきているんですよ。
版画制作での経験がプロジェクトを実施するときに活かされているということですか?
村上 版画って、もともと分業なんですよね。絵師が居て、彫師が居たり、擦り師が居たり、版元が居たり。そういう意味では、僕はプランナーだから絵師なんですけど、いろんな人が一緒にいて、一つのものを仕上げて流通させていく分業というのは昔からあるやり方なので、自分の中では自然な流れでそれができていますね。プロジェクトベースでやっていたので、震災が起きてもそのノウハウに共通するものがあって、復興支援ではある程度活かせたと思います。
チームでプロジェクトに取り組むノウハウが、既に備わっていたということですよね。
村上 プロジェクトをやる場合には、1人ではできないので、チームを作って活動していく方法というのは、今の支援活動にもつながっています。
村上さんが作家活動を始めたときは日本でもアートプロジェクトはそれほどなく、始まったばかりだったと思います。
村上 そうなんです。アートの企画書として参考にするものがなかったんです。だから、知り合いで車のラリーを企画している方に企画書を見せてもらって、目的や日時とか、それをアートに組み替えて…、そんな時代でした。
企画書をつくるプロセスがアーティストにとってすでに一連の作品になるという認識はまだなかった時代でしたね。そのときの企画書は、まだ取ってありますか?
村上 あります。紙に出してファイルに綴じたものと、フロッピーディスクでもあります。
フロッピーですか。フロッピーが読み込めなくなってしまうかもしれないので、貴重な記録を残すために早めにHDDなどに移したほうが良いですね。
村上 でも、あの当時は面白かったですよ。おもしろい場所が使えて、いろんなアーティストと活動しました。開発好明さんや小沢剛さん、八谷和彦さんとか無償で参加してくれたり、椿昇さんや藤浩志さんもいましたね、大体同じぐらいの世代だったので。駄目もとでお願いした岡本太郎さんが参加してくれたりもしました。岡本敏子さんがすごく賛同してくださって。95年に他界されたので、岡本太郎さんの最後のグループ展って、『イズミワク』じゃないかなと思います。そのときの写真もビデオも資料も、今でも大学の研究室に「イズミワク資料」として保管しています。
ご自身の大学の研究室に保管する場所があるのですね。
村上 『イズミワク』や『メモリアル』などプロジェクトごとに大体まとまっています。カタログとか写真とか紙媒体とか、そういうのはきちんと残っているし、実際のものも残っていますね。
実際のものとは、作品ですか?
村上 作品は返していて残っていないので、写真とかビデオとか、その関連グッズなどですね。『イズミワク』の後に、そういう企画をオープンにできるように「ドキュメント・イズミワク」という活動記録をつくりました。村田真さんが編集を一緒に手伝ってくれて、活動の根拠になる法的なものを含めて入れ込んだ薄いドキュメント本です。いつ頃に何をやっていくとか、何を準備していくとプロジェクトができるかというようなことをオープンな形で残して、関係者に配ったりしました。
ですが、ここまで整理するというのが難しいというか、次から次へとプロジェクトをやっちゃうので後回しになるんですよね。新しいことをとにかくやらなきゃという感じなので。例えば、助成金をもらったプロジェクトの報告書とかはやりますが、それ以降、終わったものを整理するというのは細かくはやっていないですね。
ただ、助成金の報告書を見ても、どのようなプロジェクトか伝わりにくいですね。
村上 そうですね、表面的な部分ですから。
資料は活用できる形で整理されていますか。例えばプロジェクトを振り返りたいというときに、すぐにその資料にアクセスできる状態にあるのでしょうか?
村上 そうですね、パソコンに残っているものだったら、比較的簡単に、何年前のプロジェクトと振り返ることができます。
そのパソコンというのは村上さんご自身のものですか?
村上 そうです、個人のPCです。だから、みんながアクセスできるわけではないですね。
村上さんのPCに全部の資料が保存されているのですか?
村上 僕が関わったもので、企画したプロジェクトはそうです。例えば「アート・インクルージョン」は担当がいますから、その法人が持っているパソコンですね。それにクラウドサービスも使っています。
ミミックスの資料は、自分のパソコンだけでなく、ハードディスクにバックアップは取れています。
それでは、プロジェクトに関わった方たちとの記録は残すことができているでしょうか?
村上 インタビューとかアンケートとかはもちろんあります。いつでもそれをやっているわけではなくて、町でおこなうプロジェクトでは、なかなかアンケートまではいかないですね。
そのようなデータはプロジェクトの評価につながっていきます。
村上 そうですね。あとはどこに報道されたかとか、客観的な資料は残しています。
その客観的な資料、つまりメディアクリッピングを重視されている団体が多いですが、村上さんは掲載記事を意識して残すようにされていますか。
村上 意識してはいないですね。いろいろ取材もあったりはするので「そういうのも送ってください」とか、テレビでも「放映されたらDVDにしてください」というお願いはしていて、送られてくるものは保管しています。ただ、あえて買ったりはしていないので掲載されていても見ていない記事って結構ありますね。その辺は、あまり細かくやっていないかもしれない。
メディアクリッピングは活動の評価を外部に見せるのに分かりやすいものですね。でも、根本的には、自分たちの活動を続けていこうとする気持ちからきているのだと思います。
村上 恐らく、「ミミックス」は個人ではできないものを法人化していろいろできるようにした形なので、僕がいなくなったら存続は難しいと正直思っています。なので、僕個人のライフワークとしてやってはいくけれども、それをそのまま、同じことを誰かが代わってできるものではないと思っています。
逆に、「アート・インクルージョン」はアートとソーシャルインクルージョンを組み合わせたプロジェクトから始まり、それを組織化しました。個人だけではなくて賛同する人を含めていろんな人が入りつつ、概念が広がっていくような仕組みをつくり、1人がいなくなっても動いていけるような発展性のある形にはしていこうと思っています。それぞれの組織の役割が違うので、残し方も違ってくると思います。
全国のアートプロジェクトがみな同じように語られる傾向がありますが、実は組織体としても違うし、意識もかなり違うかのかもしれません。
村上 ちょっと違う部分でしょうね。要は、「ミミックス」はやりたいことをやるために作ったものなので、必要に迫られて残すことはやります。ただ、組織を維持するためにという話となると、ちょっと本末転倒というか、逆転しちゃうので。最小限度の人数で最小限度の予算でできる、予算がどこから付かなくても組織は成り立つ最少ユニットが「ミミックス」なんです。
一方「アート・インクルージョン」は、広いオフィスがあって、家賃は何十万とかかるし、何人も雇用していて、毎月何百万とかかるわけです。それを維持するためには、情報も共有が必要だし、ある程度資料を残すことをやっぱり組織的にやっていかなきゃいけない。
組織論的に違うのですね。
村上 逆に言うと、アートのほうでの冒険もしづらくなっていくわけですよ。「ミミックス」のほうがやりやすいというか、小回りが利く。僕がオッケーだったらオッケーで即決です。組織が大きくなると動くお金も人も多くなるけど、逆に決定までの時間がかかったり、手続きも理事会とか踏まなきゃいけなかったり、大変ですね。
アートプロジェクトを将来知りたいと思う人たちが、どんなものを見たいのか、どういう資料があれば良いのか、そのような将来のアーカイブについて考えていく必要があります。
アートプロジェクトの始まり的な存在でもある「イズミワク」はすでに94年から20年ぐらい経っているので、検証するにはいいですね。
村上 恐らく、アートを学ぶ学生はこういう記録やアーカイブに触れないまま大学を卒業していっていると思います。個人で完結するような作品を卒業制作展で展示して、いろんな技術は身に付けられるかもしれないけど、実際にそれが社会の中でどう役立つのかとか、それで将来食べていけるのか。そういう社会に出てからのアウトプットの部分が抜け落ちているので、アートを断念しちゃう人が多いんですよ。
学生の頃に社会の中で生き抜くためのサバイバル術的なノウハウを身に付ける、美術大学でもそういうのを組み込んでいく必要があるのではないかと思います。
作品を制作していく学生と、芸術学や美術史などセオリーを学んでいく学生と、二極化していて、もう少し実学的な、アートで食べていけるような術を教える人っていうのが大学の中に圧倒的に少ない。それを学ばないで卒業しちゃうから、断念しちゃう。でも、実際は食っていけるんですよ、やろうと思えば。
いろいろなプロジェクトの記録がある程度共有できていくと、公共財的な知識になっていき、世の中の役に立つものになると思います。
村上 助成申請をするプロジェクトは事を起こす部分までで、記録を残すことまで予算をつけない場合が多いですよね。その事業が終わったら終了という感じで、きちんとアーカイブしていくスタッフの人件費なり、もろもろの諸経費をほとんど含んでいないから残っていないのもあると思いますね。
僕自身もそこまでは予算申請していないから、やるとこまではやるけども、今は簡単にウェブにアップする程度しかやっていない。そこまでの予算がないですね。記録のための予算があって、アーカイブまでやっていくと違うんでしょうね。
今日はありがとうございました。色々な方にとって勇気づけられるお話になったと思います。
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MMIX Lab(ミミックス ラボ)
http://mmix.org/
アート・インクルージョン
http://art-in.org
村上タカシ Takashi Murakami
美術家/MMIX Lab代表/アート・インクルージョン理事/大学教員
熊本県八代市生まれ。1986年より畳やお米を使ったインスタレーション作品など美術家として東京で活動を開始、国内外の展覧会やアートプロジェクトに参加。作品としては「GreenCircle」「TANABATA列車」プロジェクトマネーの制作などを行う。また1994年のIZUMIWAKU project「学校美術館構想」展や2010年より「アート・インクルージョン」など数々の学校やまちを使ったアートプロジェクトを企画実施。最近は「プロジェクトワーク」を含め芸術普及や文化・教育政策をテーマに文化施設等でレクチャーやワークショップ、アクションなども行う。2009年各種メディアを融合させ、アートと地域を結び創造的芸術活動を行う「MMIX Lab」を仙台で発足。2011年東日本大震災以降は「3.11メモリアルプロジェクト」(のこすプロジェクト)や「桜3.11学校プロジェクト」(しめすプロジェクト)などを展開中。